中原中也・明治40年(1907年)4月29日生~
昭和12年(1937年)10月22日没(享年30歳)
無題
I
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらはしさを歎いてゐる。そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといつて正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持ちをみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに
私は頑(かたく)なで、子供のやうに我儘だつた!
目が覚めて、宿酔(ふつかよひ)の厭ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分らなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自(みづか)ら信ずる!
II
彼女の心は真つ直い!
彼女は荒々しく育ち、
たよりもなく、心を汲んでも
もらへない、乱雑な中に
生きてきたが、彼女の心は
私のより真つ直いそしてぐらつかない。
彼女は美しい。わいだめもない世の渦の中に
彼女は賢くつつましく生きてゐる。
あまりにわいだめもない世の渦のために、
折に心が弱り、弱々しく躁さわぎはするが、
而(しか)もなほ、最後の品位をなくしはしない
彼女は美しい、そして賢い!
甞(かつ)て彼女の魂が、どんなにやさしい心をもとめてゐたかは!
しかしいまではもう諦めてしまつてさへゐる。
我利々々で、幼稚な、獣や子供にしか、
彼女は出遇はなかつた。おまけに彼女はそれと識らずに、
唯、人といふ人が、みんなやくざなんだと思つてゐる。
そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!
III
かくは悲しく生きん世に、なが心
かたくなにしてあらしめな。
われはわが、したしさにはあらんとねがへば
なが心、かたくなにしてあらしめな。
かたくなにしてあるときは、心に眼(まなこ)
魂に、言葉のはたらきあとを絶つ
なごやかにしてあらんとき、人みなは生(あ)れしながらの
うまし夢、またそがことわり分ち得ん。
おのが心も魂も、忘れはて棄て去りて
悪酔の、狂ひ心地に美を索(もと)む
わが世のさまのかなしさや、
おのが心におのがじし湧きくるおもひもたずして、
人に勝らん心のみいそがはしき
熱を病む風景ばかりかなしきはなし。
IIII
私はおまへのことを思つてゐるよ。
いとほしい、なごやかに澄んだ気持の中に、
昼も夜も浸つてゐるよ、
まるで自分を罪人ででもあるやうに感じて。
私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。
いろんなことが考へられもするが、考へられても
それはどうにもならないことだしするから、
私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。
またさうすることのほかには、私にはもはや
希望も目的も見出せないのだから
さうすることは、私に幸福なんだ。
幸福なんだ、世の煩ひのすべてを忘れて、
いかなることとも知らないで、私は
おまへに尽せるんだから幸福だ!
V 幸福
幸福は厩(うまや)の中にゐる
藁(わら)の上に。
幸福は
和める心には一挙にして分る。
頑なの心は、不幸でいらいらして、
せめてめまぐるしいものや
数々のものに心を紛らす。
そして益々不幸だ。
幸福は、休んでゐる
そして明らかになすべきことを
少しづつ持ち、
幸福は、理解に富んでゐる。
頑なの心は、理解に欠けて、
なすべきをしらず、ただ利に走り、
意気銷沈して、怒りやすく、
人に嫌はれて、自らも悲しい。
されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。
従ひて、迎へられんとには非ず、
従ふことのみ学びとなるべく、学びて
汝が品格を高め、そが働きの裕かとならんため!
(「III」のみ同人誌「白痴群」創刊号昭和4年=1929年4月発表、原題「詩友に」。のち「白痴群」昭和5年=1930年4月に全篇発表)
*
山口県の医家に生まれた詩人・中原中也(1907-1937)は、没後編集された全集で主に初期に書かれた未発表詩篇、詩集未収録詩篇を合わせた合計現存詩篇が350篇に上るのが判明しましたが、生前に中原自身によって編集された詩集は生前唯一の詩集となった昭和9年(1934年)12月刊行の『山羊の歌』(収録詩篇44篇)、没後刊行の『在りし日の歌』(収録詩篇58篇)ほどにすぎません。『山羊の歌』『在りし日の歌』はほぼ同分量ですが『山羊の歌』の方が篇数が少ないのは、今回ご紹介した「無題」のような連作詩をやや多く含むからで、この「無題」も『在りし日の歌』の時点で完成されていたとしたら全五篇にそれぞれタイトルがつけられ分割されていたと思われます。中原中也は早熟な詩人でしたが本格的な作詩は19歳の大正15年(1926年)5月に創作された「朝の歌」からで、30歳で早逝した上に自選詩集も2冊にとどまるため作風に進展がないと批判されがちですが、25歳の昭和7年(1932年)6月にはまとめられて自費出版のため2年後まで発売延期となった『山羊の歌』と、30歳の逝去直前に編集が完了されて急逝のため遺稿詩集となった『在りし日の歌』では5年の間隔を経ており、ともに代表作を多く含むとはいえ詩集全篇の印象では『在りし日の歌』では一篇一篇が焦点が絞られすっきりとまとまっており、比較すると『山羊の歌』では(「サーカス」や「汚れつちまつた悲しみに……」などの代表作を含むものの)第一詩集ならではの意欲が先に立ってやや混乱した作品が目立ち、11年間・詩集2冊の詩歴ながら数次に渡る方法的模索と詩篇ごとの試み、深化が確かめられます。中原中也は人気の高い詩人ですので各種出版社の文庫版でも『山羊の歌』『在りし日の歌』は全篇を収め、それに詩集未収録詩篇から選抜した佳作を補遺として収められている編集方針が定着していますので、やはり生前刊行詩集が2冊しかない立原道造(1914-1939)とともに文庫版でほぼ全詩集が読める詩人として、日本の詩の読者にはもっとも親しまれている詩人でしょう。
しかし詩の場合小説のように物語を追って楽しんで終わりとはいかないので、一見して甘美な青春の抒情詩のように読める中原中也や立原道造の詩も実は読者の目をすり抜けて随所によくわからないことが潜んでいます。この詩「無題」も一見して失恋寸前の恋愛詩のようでいて語り手の位置や視点が章ごとに変わり、また一章の中でも視点の移動があります。「I」は「こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、/私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、」と始まりますから心のすれ違いがある恋人へ詩人が歌いかけている詩に見えますが、「II」では「彼女の心は真つ直い!」から始まり「そして少しはいぢけてゐる。彼女は可哀想だ!」と自問自答しているのか第三者に愚痴をこぼしているのかわからない展開になります。「III」では「かくは悲しく生きん世に、なが心/かたくなにしてあらしめな。」とありますからこの文語体の章の「な(汝)」は自問自答でしょう。「IIII」では(通常ローマ数字では「IV」となるべきですが)「私はおまへのことを思つてゐるよ。」と再び「I」と同じく恋人に語りかけている叙述に戻りますが、「I」や「II」でのねちっこい語り口、また「III」の文語体から一転して意図的な猫なで声になり、「私はおまへを愛してゐるよ、精一杯だよ。/いろんなことが考へられもするが、考へられても/それはどうにもならないことだしするから、/私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。」と「それはどうにもならないことだしするから、」のような破格文法からするとこれも自問自答の章句の性格が強いのです。「V 幸福」ではいきなり「幸福は厩(うまや)の中にゐる/藁(わら)の上に。」とイエス・キリスト誕生の暗喩で心の平安が提示され、最終連で「されば人よ、つねにまづ従はんとせよ。」と三人称の訓戒調になり、恋愛詩の調子は完全に払底されてしまいます。この「V 幸福」に行下げの連で「頑なの心は、不幸でいらいらして、」と示されるのは「I」の「こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、/私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、」と照応していますから、結局この詩は「幸福」を防げる心の動きは「強情」「頑な」である、という内省で一貫はしているのですが、逆にそれが主題ならば「I」から「IIII」までの章ごとのややこしい語り口の転換は何のために必要だったかがこの詩に対する疑問になってきます。実際この詩から読者が受ける印象は内省の一貫した追究よりもあの手この手で拗ねている詩人の語り口の方が強いので、「それはどうにもならないことだしするから、/私は身を棄ててお前に尽さうと思ふよ。」に集中するような投げやりな一方的断言の方に重点がかかります。中原中也の詩が明治・大正の抒情詩からはっきり昭和以降の詩の特色を示しているのはこの多層的な発想であり、『山羊の歌』ではその錯綜が目立つ詩が多く、『在りし日の歌』ではもっと簡素ですっきりとした形式の中にすっと詩篇全体を相対化する詩行が差し挟まれる技巧の冴えが見られます。中原が口語詩の中に文語脈、歌謡脈を差し挟む技巧は語りの次元の多層性をもたらしているので、中原の生前当時時代錯誤的と批判されたこの手法はローマ文学で中世から見られる多言語混淆(マカロニック)体の日本語的応用に近いのです。それは中原にとって原点だったダダイズム詩からの独自の発展でもあり、また求心的な漢詩・和歌の伝統から発生した明治・大正期の現代詩にあっては異質な日本語詩の発想でした。中原と平行するこの発想は逸見猶吉、伊東静雄、立原道造にも異なる形で見られるので、昭和以降を現代詩、それ以前の明治・大正を近代詩と分ける一般的な呼称にはその点で根拠があります。この「無題」一篇からそこまで話を広げるのは牽強附会の気もありますが、そもそもこの詩を「無題」とする感覚そのものの大胆さは尋常ではないものです。