人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

入沢康夫「哀切たるエピローグ」昭和46年(1971年)

入沢康夫昭和6年(1931年)11月3日生~
平成30年(2018年)10月15日没(享年86歳)
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哀切なるプロローグ

 ――またしても回り来った年のはじめに――
 入沢康翁

この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
 註1 誰によって、と君は問うのか。「読者」よ、君によってだ。「詩人」よ、君によってだ。

この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
 註2 「詩」は、であって「詩人」ではないというこの侮辱。このことによって詩は二重におとしめられ、「詩人」も実はいっそう深くはずかしめられている。

この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
 註3 ジャンルとしての「詩」を言っているのではない。ジャンルというなら、いずこも同じではあるまいか。

この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。
この国では、詩は、今日完全に
 註4「それは今にはじまったことではない」と、今、君は言うのか。

 侮辱された!
 註5 これを確認したまえ、ここに立ちたまえ、「詩」よ、君が憤死の道を選ぶなら、ぼくが介錯してあげる。けれども生きて、恥をそそぐというのなら、どんな道を通るのか、「詩」よ。これは見ものだ。いずれにもせよ、ぼくは君について行き、君の行方を見とどけよう。来週からを楽しみに。

この国では、詩は、今日完全に侮辱されている。


(「朝日ジャーナル」昭和46年=1971年1月1日・8日合併号)


 本作は週刊誌「朝日ジャーナル」が昭和46年に一年間に渡って第一線の詩人の新作詩を連続掲載する際、その第一弾として詩人・入沢康夫が「入沢康翁」名義で発表した作品です。この詩はのちの入沢康夫の詩集には収録されず、思潮社の「新選・現代詩文庫」の「109・新選入沢康夫詩集」昭和53年(1978年)3月刊の詩人・高橋睦郎(1937-)による書き下ろし巻末解説「排除された『詩』から」で全篇引用再録され、論じられるまで単行本未収録詩篇のままでした。詩集未収録詩篇、しかも「入沢康翁」名義による戯作の本作に焦点を当てたのは高橋睦郎の鋭い着眼点がうかがえ、またこの巻末解説に引用再録されることで初めて本作「哀切なるプロローグ」は場所を得たとも言えます。この詩は詩論の詩として明快そのものですから、それだけに詳細に検討することもできますし、高橋睦郎氏の批評で仔細に解読されていますから、屋上屋を重ねる必要はないでしょう。島崎藤村萩原朔太郎三好達治の詩から現代詩がいかに遠くに振り切れたかを本作は示してあまりあります。しかもこの「哀切なるプロローグ」すらすでに発表から50年を迎える詩なのです。