[ 小野十三郎(1903-1996)近影、創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集10』昭和29年('54年)12月刊より ]
第8詩集『小野十三郎詩集・火呑む欅』
昭和27年(1952年)11月30日・三一書房刊
第4詩集『大阪』
昭和14年(1939年)4月16日・赤塚書房刊
第6詩集『大海邊』
昭和22年(1947年)1月15刊・弘文社刊
『小野十三郎著作集』筑摩書房
平成2年(1990年)9月・12月・平成3年2月刊
三詩集とも第一巻所収
大 怪 魚 小野十三郎
かじきまぐろに似た
見あげるばかりの
大きな魚の化物が
海からあげられた。
おきざりにされて
砂浜には人かげもない。
ひきさかれた腹から
こやつは腹一ぱい呑みこんだ小魚を
臓腑もろとも
ずるずると吐きだして死んでいる。
その不気味さつたら。
おどろいたことに
その小魚どもがまたどいつもこいつも小魚を呑みこんでいるのだ。
海は鈍く鉛色に光つて
太古の相を呈している。
波しずかなる海にもえらい化物がいるものだ。
ひきあげてみたものの
しまつにおえぬ。
生乾しのまゝ
荒漠たる中に幾星霜。
いまだに
死臭ふんぷんだ。
(第8詩集『火呑む欅』
昭和27年='52年11月刊収録)
小野十三郎(1903-1996)の生前最後の詩集『冥王星で』'92(平成4年)には長年の詩友・伊藤信吉氏による解説「新詩集からの回想――旧友通信」と、高齢病身の小野十三郎の指示で編纂実務を勤めた詩人・寺島珠雄氏による「編集覚え書」と「小野十三郎単行詩集略誌」が巻末に併載されており、小野十三郎自身の意向によって『冥王星で』は22冊目の単行詩集と目されています。小野十三郎の詩集は同書が最終詩集になりましたが、22冊のうち2冊目の『半分開いた窓(訂正再版)』'28(昭和3年)は非売品だった私家版の第1詩集『半分開いた窓』'26(大正15年)の改訂公刊版で、また9冊目の『大阪』'53(昭和28年)は4冊目の『大阪』'39(昭和14年)~7冊目の『抒情詩集』'47(昭和22)年の4冊を集成し新作を加えた総合詩集でもあるので、小野十三郎が戦後に主宰した「大阪文学学校」門下生たちが中心となって小野十三郎の全業績を検討した山田兼士・細見和之編の論集『小野十三郎を読む』2008(平成10年)では訂正再版『半分開いた窓』'28と総合詩集『大阪』'53は含めず、小野十三郎の詩集を全20冊としています。しかしここでは晩年の小野十三郎自身の意向を尊重して、最終詩集『冥王星で』の書誌通りに詩集の数を22冊としました。
小野十三郎の詩集は『半分開いた窓』とその訂正再版、『古き世界の上に』'34(昭和9年)ではアナーキズム~プロレタリア文学の同伴者という流れでつながっており、アナーキズムとコミュニズム(ボルシェイヴィキズム)では今日大きな違いがあるように見えますが、ロシアにおいても体制反抗はアナーキズム/ニヒリズムとして始まり、コミュニズムとして組織化・民衆化が企てられたので、日本への思想的影響も先にアナーキズム/ニヒリズムが入り、ソヴィエト同様コミュニズムへの発展が提唱されたのです。ロシアではコミュニズムに向かわなかったアナーキストたちは脱落して国外亡命することになり、日本では必ずしもコミュニズムには同じなかったアナーキストたちは完全に沈黙するか、コミュニズムの同伴者となりました。コミュニズム同伴者ですら十分に当時の日本では危険視されたので、『古き世界の上に』は文体は第1詩集の延長ながら思想性を抑制した内省的な詩集になり、5年ぶりの4冊目の詩集『大阪』'39(昭和14年)で小野十三郎は工業地帯の風景に託して抒情を圧殺する、画期的な詩法を創出します。しかし続く『風景詩抄』'43(昭和18年)、戦時下の作品と敗戦後の作品が混在した『大海邊』'47(昭和22年1月刊)、『抒情詩集』'47(昭和22年6月刊、収録作品は『大海邊』収録作品に先立つ戦時下の作品)では詩の内容は韜晦の度を深め、戦後には新たな詩法の模索が混乱を招いて詩集は重苦しさを感じさせるようなものになります。それは特に200ページ・94編もの詩編を収録した『大海邊』で顕著で、後年小野十三郎自身が『大海邊』には未収録にした敗戦初期の作品を集めた50ページ・21編の『抒情詩集』を好きな詩集に上げているほどです。
総合詩集『大阪』'53(昭和28年、大阪市民文化賞)に先立って三一書房から『日本国民詩集シリーズ第二巻・小野十三郎詩集』として発表された8冊目の詩集『火呑む欅』'52(昭和27年、創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集10』'54への再録時から原題に改題)収録の「大怪魚」は発表当時たいへん評判になった作品で、まだ日本が敗戦の混乱から完全に回復せず、アメリカの占領下にあったこの時期には、根っからの放浪者の金子光晴、モダニズム詩人の北園克衛や村野四郎らも暗く被虐的な詩を書いていたので、プロレタリア詩がモダニズムの喩法を導入した社会批判の暗喩詩と高い評価を得ました。確かに「大怪魚」は『大阪』の達成とも違う、『大海邊』の重苦しさとも違うすっきりした文体で、詩人自身にとっても会心の作品だったと思われます。
しかし「大怪魚」の詩法をはっきりと否定したのは第1詩集『倖せそれとも不倖せ』'55でデビューする新鋭詩人の入沢康夫(1931-)で、入沢はこの詩の実質をなすものは「見あげるばかりの」「おきざりにされて」「その不気味さつたら。/おどろいたことに」「ひきあげてみたものの/しまつにおえぬ。」「いまだに/死臭ふんぷんだ。」と詩の語り手の主観的判断=感想であり、大怪魚と名うちながら描かれているものは魚ではなく魚を「大怪魚」と見る語り手の判断=感想だけが実質をなしており、感想は詩ではない以上「大怪魚」は詩ではない、と痛烈に批判しています。確かに入沢の観点からの指摘ならば、「大怪魚」は『大阪』の名編「葦の地方」「明日」や『大海邊』の代表作「不当に「物」が否定されたとき」よりも後退した詩意識の作品なのは否めず、入沢康夫は徹底した方法的詩人で「詩は"表現"ではない」とまで断言する詩人であり、言語それ自体が完全な自律性を得た時に成立するのが詩である、という極端な詩観から詩作行為を捉えています。入沢の批判は小野十三郎も目にしたらしく、その後の自選詩集には「大怪魚」を収録することが少なくなりました。また入沢の批判にも耐えうる喩法、発想、文体を身につけたのはこれまでご紹介してきた後期~晩年の詩に見られる通りです。ですが小野十三郎の詩は初期から試みに満ちたもので、「大怪魚」の喩法の否定がそのまま小野十三郎の全詩業に当てはまるわけではないのを強調しておきたいと思います。
葦 の 地 方 小野十三郎
遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安や 曹達や
電気や 鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。
(第4詩集『大阪』
昭和14年='39年4月刊収録)
明 日 小野十三郎
古い葦は枯れ
新しい芽もわづか。
イソシギは雲のやうに河口の空に群飛し
風は洲に荒れて
春のうしほは濁つてゐる。
枯れみだれた葦の中で
はるかに重工業原をわたる風をきく。
おそらく何かがまちがつてゐるのだらう。
すでにそれは想像を絶する。
眼に映るはいたるところ風景のものすごく荒廃したさまだ
光なく 音響なく
地平をかぎる
強烈な陰影。
鉄やニツケル
ゴム 硫酸 窒素 マグネシユウム
それらだ。
(第4詩集『大阪』
昭和14年='39年4月刊収録)
不 当 に「物」が 否 定 さ れ た と き
小野十三郎
不当に
「物」が否定されたとき
私は「精神」に対して怒りを感じた。
物質は或るとき
さういふ精神どもに取囲まれた。
物は駆り出されて
あちこち逃げまどひ
或は天界にすつ飛んだ。
物は容れられず
永久に孤立してゐた。
物は内に深い寂寥をたたえ
異国の荒れた鉱山や
旧世代の都市の工場地帯から
はるかに
故国の方を見てゐた。
私はいま物の位置を信じることが出来る。
雑白な
脅迫がましい精神どもが立ち去つたあとから
私は物質をこゝに呼びかへしたい。
その酷烈な形象で
全地平を埋めつくしたい。
(第6詩集『大海邊』
昭和22年='47年1月刊)