人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

与謝野鉄幹「人を戀ふる歌」明治32年(1899年)

与謝野鉄幹明治6年(1873年)2月26日生~
昭和10年(1935年)3月26日没(享年62歳)
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人を戀ふる歌

 (三十年八月京城に於て作る)

妻をめどらば才たけて
顔うるはしくなさけある
友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱

戀のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む

くめやうま酒うたひめに
をとめの知らぬ意氣地あり
簿記の筆とるわかものに
まことのをのこ君を見る

あゝわれコレッヂの奇才なく
バイロン、ハイネの熱なきも
石をいだきて野にうたふ
芭蕉のさびをよろこばず

人やわらはん業平(なりひら)が
小野の山ざと雪を分け
夢かと泣きて齒がみせし
むかしを慕ふむらごころ

見よ西北にバルガンの
それにも似たる國のさま
あやふからずや雲裂けて
天火ひとたび降らん時

妻子をわすれ家をすて
義のため耻をしのぶとや
遠くのがれて腕を摩す
ガリバルヂイや今いかん

玉をかざれる大官は
みな北道(ほくどう)の訛音(なまり)あり
慷慨よく飲む三南(さんなん)の
健兒(けんじ)は散じて影もなし

四たび玄海の浪をこえ
韓(から)のみやこに來てみれば
秋の日かなし王城や
むかしにかはる雲の色

あゝわれ如何にふところの
劍は鳴をしのぶとも
むせぶ涙を手にうけて
かなしき歌の無からんや

わが歌ごゑの高ければ
酒に狂ふと人は云へ
われに過ぎたる希望(のぞみ)をば
君ならではた誰か知る

「あやまらずやは眞ごころを
君が詩いたくあらはなる
むねんなるかな燃ゆる血の
價すくなきすゑの世や

おのづからなる天地(あめつち)を
戀ふるなさけは洩すとも
人を罵り世をいかる
はげしき歌を秘めよかし

口をひらけば嫉みあり
筆をにぎれば譏りあり
友を諌めに泣かせても
猶ゆくべきや絞首臺

おなじ憂ひの世にすめば
千里のそらも一つ家
おのが袂と云ふなかれ
やがて二人のなみだぞや」

はるばる寄せしますらをの
うれしき文(ふみ)を袖にして
けふ北漢の山のうへ
駒たてて見る日の出づる方(かた)

(「伽羅文庫」「国文學」明治32年=1899年12月、「よしあし草」明治33年2月、初出原題「友を戀ふる歌」)


 京都生まれの歌人・詩人、与謝野寛こと鉄幹(1873-1935)は1歳年長の島崎藤村(1872-1943)より文壇への登場は早く、第1詩歌集『東西南北』は藤村の『若菜集』(明治30年8月刊)より1年早い明治29年(1896年)7月に刊行されています。藤村が『若菜集』収録詩篇を一気に書き始めたのは明治29年秋からですから、大反響を呼んだ与謝野鉄幹の『東西南北』に刺激された可能性は大いにありますが、鉄幹の詩歌集は短歌と新体詩をほぼ半々に収録した、まだ明治20年代の現代詩の過渡期を反映したものでした。また鉄幹自身に歌人としても詩人としても大成したい欲があり、鉄幹は明治年間の間はその後も短歌と新体詩を併載した詩歌集を発表していくことになります。鉄幹が主宰した詩歌誌「明星」からのちに有力な専門歌人、専門詩人が輩出されると、鉄幹はほぼ短歌と散文に創作を移すことになります。鉄幹の詩歌集は第2詩歌集『天地玄黄』明治30年(1897年)1月、合同詩集『この花』明治30年3月と続き、明治32年(1899年)の「新詩社」設立を経て明治33年4月に「明星」創刊、同年秋から門下の女弟子・鳳晶子、山川登美子と密接に交際が始まり、明治34年(1901年)3月刊の第3詩歌集『鉄幹子』刊行の頃に鉄幹と女弟子の交友をハーレム関係に見立てた新聲社刊行の匿名文『文壇照魔鏡』によるスキャンダルが起こります。鉄幹は明治32年に生後1か月で亡くした子供への失意から夫人と離別しており、戸籍上は離別した夫人と入籍したままでした。鉄幹は新聲社を告訴しますが敗訴に終わります。4月には鳳晶子との恋愛を背景にした第4詩歌集『紫』が刊行されます。同年秋には前夫人との離婚が正式に成立し、鉄幹は鳳晶子、つまり与謝野晶子(1878-1942)と結婚しました。

 今回ご紹介した「人を戀ふる歌」は雑誌発表時の原題通り友人たちの近況を思って詠った詩篇ですが、一行目の強い印象から「明星」門下の一番弟子の女性、鳳晶子を詠った詩篇と誤解されて世間に広まりました。京都生まれの鉄幹は自身を国士と持って任じ、青年時代の当時には実際に日本から朝鮮半島までを活動の場とする政治活動家の友人を多く持っていました。本作は明治34年3月15日刊行の第3詩歌集『鉄幹子』に収録されましたが、発表されたのは2年前の「伽羅文庫」明治33年2月5日号と早く、まだ鳳晶子との面識のない、「明星」創刊2か月前になります。「伽羅文庫」での原題は「友を戀ふる歌」で「あやまらずやは眞ごころを」から「猶ゆくべきや絞首臺」までの三連がなく、同月25日号の「国文學」で「人を戀ふる歌」に改題され、さらに1年後の「よしあし草」明治33年2月号に再発表される際に上記の三連が追加されて詩集収録型の通りになります。明治38年の改版では多少の字句の異動がありますが、連の増減や文意の変更ほどの改稿ではなく表記上の異動にとどまるものです。鉄幹は明治29年9月に母を亡くし、明治31年8月には僧侶の父を亡くして家督を相続していますから(鉄幹は四男ですが、年長の兄たちは親族の家督相続のため養子縁組していて鉄幹が父の家督を相続したと思われます)、鉄幹は事業として「新詩社」「明星」を設立・創刊したこともあり、家督相続者として20代前半までのように国士の友人たちのように実践的な政治活動への関わりは断念せざるを得なかったのがこの詩の背景になっている、と読むのが妥当と思われます。

 この詩は詩集収録前に3度も雑誌掲載されたように『鉄幹子』収録前から文学青年に限らず広く愛唱され、明治40年代からは学生寮歌の節に乗せて最初の三連が歌曲として普及したとされます。「妻をめどらば才たけて/顔うるはしくなさけある/友をえらばば書を讀んで/六分の俠氣四分の熱」との第一連だけでも心当たりのある人は多いでしょう。実際には「妻をめどらば才たけて/顔うるはしくなさけある」はつかみの文句で、「友をえらばば書を讀んで/六分の俠氣四分の熱」からがこの詩の本題となります。「妻をめどらば」の方がひとり歩きしてしまったのは怪文書『文壇照魔鏡』以来これが鉄幹の晶子とのおのろけとして読まれるようになってしまったからで、また唱歌として冒頭三連だけが切り離された型では政治活動家の友人たちに思いを寄せた内容に踏みこまないからですが、全篇を読む機会があっても鉄幹の詩には調子の良い軽さが目立つために鉄幹自身の挫折感はほとんど伝わってこないのです。「明星」は高村光太郎石川啄木北原白秋吉井勇谷崎潤一郎佐藤春夫らのちの大才を多く輩出しましたが、いずれも鉄幹の門下にあった頃には一種のハイカラな軽薄さから出発した点で共通しており、鉄幹自身が真に優れた創作家となるのは新人たちからはるかに時代遅れになり、孤立した流派の歌人として作歌に集中するようになってからでした。しかし他方に島崎藤村土井晩翠らを置けば鉄幹が優れた門弟に恵まれたのもその軽い青春性にあり、鉄幹自身は青年のミイラのような歌人として独自の成熟を迎えることになります。ただし与謝野鉄幹の明治期の詩歌集は文学的感興というよりは、鉄幹という詩人の伝記的註釈として読んだ時にようやく面白く読めるようなもので、鉄幹の果たした文学史的な役割の大きさに反して作品として実りあるものとはいい難いのはいたしかたないでしょう。しかし歌人としての鉄幹の業績は裏表のすっぽり欠けたスケールの大きさによって古典的な風格を備え、夫人の晶子の短歌よりもはるかに面白いものです。