人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

与謝野鉄幹「煙草」明治43年(1910年)

与謝野鉄幹明治6年(1873年)2月26日生~
昭和10年(1935年)3月26日没(享年62歳)
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煙草


啄木が男の赤ん坊を亡くした、
お産があつて二十一日目に亡くした。
僕が車に乗つて駆けつけた時は、
あの夫婦が間借してゐる喜之床の前から、
もう葬列が動かうとしてゐた。
啄木の細君は目を泣き膨して店先に立つてゐた。

自分はすぐ葬列に加つた。
葬列と云つても五台の車が並んで歩く限(きり)だ、
秋の寒い糠雨が降つてゐる空は
淋しい葬列を露はに見せまいとして灰色のテントを張つてゐる。
前の車の飴色の幌から涙がほろりほろり落ちる。
あの中に啄木が赤い更紗の風呂敷に包んだ赤ん坊の小さい柩を抱いてゐるんだ。

啄木はロマンチツクな若い詩人だ、
初めて生まれた男の児をどんなに喜んだらう、
初めて死なせた児をどんなに悲しんでるだらう、
自分などは児供(こども)の多いのに困つてる、
一人や二人亡くしたつて平気でゐるかもしれない。
併し啄木はあの幌の中で泣いてゐる、屹度(きつと)泣いてゐる。

どこかの街を通つた時、
前の車から渦を巻いて青い煙がほつと出た、
ああ殊勝な事をする、啄木は車の上で香を焚いてゐるんだ、
僕は思はず身が緊(しま)つた。

今度は又ほおつと出た煙が僕の車を掠めた、
所が香でなくてあまいオリエントの匂ひがぷうんとした。
僕は其れを一寸(ちつと)も驚かなかつた、
僕も早速衣嚢(かくし)から廉煙草(やすたばこ)のカメリアを一本抜いて火を点けた、
先刻から大分喫(の)みたかつた所なので……
また勿論啄木と一所に新しい清浄な線香を一本焚く積りで……

折から又何処かの街を曲がると、
「おい、車体をさうくつつけて歩いちや可(い)かん」と交番の巡査がどなつた。
僕の車夫は「はい、はい」と素直に答へて走つた。
そんな事で僕と啄木の悲しい、敬虔な、いい気持の夢が破れるもんぢやない、
二人の車からは交代にほおつと、ほおつと煙がたなびいて出た。

(明治43年=1910年作、詩歌集『鴉と雨』収録)


 この詩篇「煙草」が収録された詩歌集『鴉と雨』(新詩社刊)は大正4年(1915年)8月刊で、石川啄木(明治19年1886年2月20日生~明治45年=1912年4月13日没)の没後の詩集収録になりましたが、啄木の長男・真一の誕生は明治43年10月4日、急死(当時新生児の急死は珍しくありませんでした)は同月27日(詩には「二十一日目」とありますが正しくは二十四日目で、大ざっぱに三週間と数えた鉄幹の勘違いでしょう)ですので、初出誌不詳ながら鉄幹が主宰し、啄木も同人だった新詩社発行の詩歌誌「明星」(明治33年=1900年4月創刊~明治41年=1908年10月廃刊)の後身「スバル」(明治42年=1909年1年創刊~大正2年休刊)に、真一の葬儀から間もなく創作され発表されたものと思われます。詩集収録が遅れましたが、これは前詩歌集『樫之葉』が明治43年7月刊と啄木の長男・真一の出生・急死の直前に当たり、しかも明治44年(1911年)10月~大正2年1月まで鉄幹は渡欧してヨーロッパ諸国を漫遊し(明治45年には半年間、晶子夫人も渡欧・合流し、晶子夫人は出産のために早く帰国しました)、帰国後はヨーロッパ紀行文集の書き下ろしに集中し、また大正4年4月には京都府衆議院議員選挙に立候補して落選するなど公私ともに多忙だったため、詩歌集の刊行が5年間空いたためでした。また啄木の急逝前後は鉄幹の外遊中でしたので、鉄幹は啄木逝去や葬儀にも立ち会えませんでした。

 啄木はまだ盛岡中学の学生だった明治33年には創刊間もない「明星」を愛読して新詩社詩友(準同人)になり(まだこの年啄木は14歳です)、明治35年(1902年、16歳)には学校を退学して上京、11月には与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪問しています。翌明治35年(1903年、17歳)には帰郷して父の勤めていた寺院の手伝いをしながら「明星」に短歌が採用されるようになり、11月には新詩社同人に推挙され、12月には初めて啄木の雅号で「明星」に5篇の新体詩を発表、翌明治36年(1904年、18歳)には新進詩人として「明星」「帝國文學」「時代思潮」「太陽」「白百合」など主要な文芸詩に毎月のように新作詩を発表し、翌明治38年(1905年、19歳)5月には第一詩集『あこがれ』を発表して森鴎外を始めとする文壇全般からの絶賛を受け、6月には前年からの婚約者・堀合節子と結婚します。啄木生前のキャリアが順風だったのはこの頃までで、以降啄木は父の破産とともに一家離散と集合をくり返し、啄木自身の浪費癖・我の強さもあって職を転々とし、生計のために詩と小説を多作するも掲載されるのは地方紙ばかりで注目されず、やがて一家全員が不衛生と不摂生な住環境から結核に罹患してしまいます。『あこがれ』以降ようやく2冊目の単行本にして第一歌集『一握の砂』が刊行されようやく一流歌人として認められたのは長男・真一急死後の明治43年12月でしたが、すでに啄木は結核が進行し慢性腹膜炎まで患い、しばしば瀕死と回復をくり返し始めた頃でした。またこの頃には啄木は反体制的な民衆詩人となっていたので、交友は続いていても鉄幹・晶子の芸術至上主義的な「明星」~「スバル」からは離れた作風を確立していました。

 鉄幹の前詩歌集(鉄幹は明治29年=1896年の第一詩歌集『東西南北』以来短歌と新体詩を合わせた詩歌集か、純粋な歌集しか刊行しませんでした)『樫之葉』の詩はまだ文語詩でしたから、『鴉と雨』は鉄幹の口語自由詩が初めて収められた詩歌集になりましたが、以降鉄幹は没後刊行の拾遺詩集『采花集』を除いて生前には歌人・歌論家・エッセイの創作に徹することになります。「煙草」はまだ口語自由詩が定着していなかった、未熟な口語自由詩の試作しか出ていなかった明治43年の作品としては斬新な詠みぶりで、ほとんど行分けのエッセイのような口語散文ですが、鉄幹らしい大らかさが横溢した好作になっています。この詩の「車」は最終連で車夫が出てくるように人力車で、人力車5台だけの葬列ですから寂しい内輪だけのものです。勘所は「啄木はロマンチツクな若い詩人だ、/初めて生まれた男の児をどんなに喜んだらう、/初めて死なせた児をどんなに悲しんでるだらう、」で始まる第三連ですが、「自分などは児供(こども)の多いのに困つてる、/一人や二人亡くしたつて平気でゐるかもしれない。/併し啄木はあの幌の中で泣いてゐる、屹度(きつと)泣いてゐる。」というのは啄木より13歳年上の鉄幹は当事37歳で、28歳で再婚した5歳年下の晶子夫人とはこの時すでに三男・三女をもうけていました(前夫人とは一女を亡くした後離婚しています)。鉄幹と晶子夫人はいかにも明治の夫婦らしく子沢山で、鉄幹46歳・晶子41歳の大正8年までに五男・六女をもうけています。渡欧中にも後から合流した晶子夫人を妊娠させて先に帰国させているほどです。この詩の初出誌は明らかではないのですが、「自分などは児供(こども)の多いのに困つてる、/一人や二人亡くしたつて平気でゐるかもしれない。」という2行は生前の啄木には残酷ですから、もっと穏当な表現だったのを啄木没後の詩集収録時に改稿された部分かもしれません(詩歌集『鴉と雨』刊行時には鉄幹は四男・五女の父とさらに子沢山になっていました)。島崎藤村(1872-1943)、土井晩翠(1871-1952)と並ぶ明治30年代詩人の中で、この鉄幹の「煙草」ほどの平易な口語自由詩に進んだのは長命だった河井醉茗(1874-1965)くらいしかいないので、鉄幹が口語自由詩を『鴉と雨』を最初と最後に止めてしまったのは歌人としての大成を選んだとしても惜しまれ、「煙草」自体は石川啄木の長男の葬儀という題材以外は平凡な詩篇なのですが、この平明な口語自由詩は平凡で平明な日常詩だからこそ発展の可能性・将来性のあるものです。いかんせん詩集にまとめられるのが機を逸したと言うべきで、大正4年にはすでに高村光太郎萩原朔太郎室生犀星らの口語自由詩の世代の詩人が登場していました。鉄幹は明治期に刊行した詩歌集でもどこか詩の主流からは微妙にずれた位置にあり、もし明治43年から明治末年までの間に口語自由詩の創作に集中して早く詩集をまとめていたら高村や萩原、犀星らを置いて口語自由詩の本格的な創始者になれたかもしれない詩人です。その機会をみすみす逃したのも鉄幹らしい大らかさと思えるので、鉄幹もまた未だに正当な評価を得られないでいる明治詩人かもしれません。