人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

蒲原有明「朝なり」(詩集『春鳥集』明治38年=1905年より)

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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「朝なり」

 蒲原有明

朝なり、やがて濁川(にごりかは)
ぬるくにほひて、夜の胞(え)を
ながすに似たり。しら壁に――
いちばの河岸(かし)の並み藏の――
朝なり、濕める川の靄。

川の面(も)すでに融けて、しろく、
たゆたにゆらぐ壁のかげ、
あかりぬ、暗きみなぞこも。――
大川がよひさす潮の
ちからさかおすにごりみづ。

流るゝよ、ああ、瓜の皮、
核子(さなご)、塵わら。――さかみづき
いきふきむすか、靄はまた
をりをりふかき香をとざし、
消えては青く朽ちゆけり。

こは泥(ひぢ)ばめる橋ばしら
水ぎはほそり、こはふたり、――
花か、草びら、――歌女(うたひめ)の
あせしすがたや、きしきしと
わたれば嘆く橋の板。

いまはのいぶきいとせめて、
饐(す)えてなよめく泥がはの
靄はあしたのおくつきに
冷えつつゆきぬ。――鴎鳥(かもめどり)
あげしほ趁(お)ひて、はや食(あさ)る。

濁れど水はくちばみの
あやにうごめき、緑練り、
瑠璃の端(は)ひかり、碧(あを)よどみ、
かくてくれなゐ、――はしためは
たてり、揚場(あげば)に――女(め)の帶や。

青ものぐるま、いくつ、――はた、
かせぎの人ら、――ものごひの
空手(むなで)、――荷足(にたり)のたぶたぶや、
艫(とも)に竿おし、舵とりて、
舳(へ)に歌を曳く船をとこ。

朝なり、影は色めきて、
かくて日もさせにごり川、――
朝なり、すでにかがやきぬ、
市ばの河岸(かし)の並みぐらの
白壁(しらかべ)――これやわが胸か。

(詩集『春鳥集』より)


 蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)の第3詩集『春鳥集』は明治38年(1905年)7月に本郷書院より刊行されましたが、同詩集収録の「朝なり」は明治38年1月に与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」に掲載され、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』から明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、薄田泣菫の第4詩集『白羊宮』と並んで明治新体詩の最高峰と名高い明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』、また新作詩集を含む大正11年(1922年)6月刊の全詩集『有明詩集』に至るまでの有明作品中、雑誌発表時からもっとも大きな反響を呼んだものです。有明明治30年代~40年代を代表する詩人として島崎藤村土井晩翠薄田泣菫、伊良子清白に並ぶ詩人ですが、明治期にあっては日本の現代詩(新体詩)は主にイギリス19世紀のロマン主義詩からの影響の強いものでした。有明は親友の詩人・小説家の岩野泡鳴(1873-1920)とともに英文学経由でフランス象徴主義詩を学び、自然主義を土台とする象徴主義を泡鳴とともに自作に採り入れた詩人でした。「朝なり」は水道橋の陸軍砲兵工場(のち後楽園球場、現東京ドーム)での朝の用水路の叙景詩ですが、自然主義的な叙景に象徴主義的な心象感覚を合わせ、文語体自由詩でありながら一歩進めれば口語自由詩に限りなく近づいた作品です。この成果は第4詩集『有明集』では極限にまで達して「茉莉花」「月しろ」などの傑作を生みますが、有明の成果を飛び越して口語自由詩を指向していた若手詩人たちからの激しい批判と、有明自身の私生活上の苦悶が重なって有明の詩作からの引退を余儀なくさせることになりました。

 有明は『有明集』以後長く鬱病に苦しみ、北原白秋のアルス社からの全詩集『有明詩集』では口語自由詩に転換した新詩集を合わせ、また最晩年まで第1詩集~第4詩集の改訂版に取り組んでいますが、それらはほとんど反響を呼ばず、親友の岩野泡鳴の逝去をきっかけに文学者との交友も止めてしまいます。北原白秋萩原朔太郎ら少数の詩人が有明の詩をひっそりと賞揚していましたが、その間に有明は唯一の詩論集『飛雲抄』(昭和13年=1938年)を刊行した程度で長く過去の詩人として忘れられた存在となっていました。第二次世界大戦敗戦後に川端康成が偶然有明の貸家に住んだことから執筆の依頼を受け、敗戦時の長編エッセイ『野ざらしの夢』(昭和21年=1946年6月刊)に続き自伝的長編小説『夢は呼び交す』(昭和22年=1947年11月刊)が刊行されました。有明が当時その概念がなかった共感覚の持ち主であり、複雑な恋愛経験によって神秘体験を経た詩人であったことが同書で初めて明らかにされています。有明は生涯明治時代の4詩集の改訂とともに新作の詩作を続け、77歳の長寿で逝去しましたが、明治・大正・昭和の三代に渡ってひっそりと現役詩人を貫いた詩人でした。「朝なり」もその後数次に渡って改作を重ねられた作品ですが、「明星」への発表から詩集『春鳥集』に収められたこの最初の版がもっとも作詩時の発想を伝える決定稿になっています。しかし有明は70代の最晩年まで自作の改作を止めなかったので、ついに自作の決定稿を認めることがなかった特異な詩人であり続けました。有明の自伝的長編小説『夢は呼び交す』は岩波文庫で再刊されており、日本の現代文学の必読書に数えられる一冊です。また有明の詩集は今なお可能性を持つ現代詩の古典であり、日本の詩は有明の開拓した領域をほとんど越えていないのです。