人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

川路柳虹「塵溜」ほか(明治40年=1907年)

川路柳虹明治21年(1888年)7月9日生~昭和34年(1959年)4月17日没
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新詩四章より

川路柳虹

「塵溜(はきだめ)」

隣の家の穀倉の裏手に 
臭い塵溜(はきだめ)が蒸されたにほひ、
塵塚のうちにはこもる
いろいろの芥(あくた)の臭み、
梅雨晴れの夕(ゆふべ)をながれ漂つて
空はかつかと爛(ただ)れてる。

塵溜の中には動く稲の蟲、浮蛾(うんか)の卵、
また土を食(は)む蚯蚓(みみず)らが頭を擡(もた)げ、
徳利(とつくり)壜の虧片(かけら)や紙の切れはしが腐れ蒸されて
小さい蚊は喚(わめ)きながらに飛んでゆく。

そこにも絶えぬ苦しみの世界があって
呻くもの死するもの、秒刻に
かぎりも知れぬ生命の苦悶を現(げん)し、
闘つてゆく悲哀(かなしみ)がさもあるらしく、
をり\/は悪臭にまじる蟲螻(むしけら)が
種々(しゆじゆ)のをたけび、泣聲もきかれる。

その泣聲はどこまでも強い力で
重い空気を顫(ふる)はして、また軈(が)て、
暗くなる夕(ゆふべ)の底に消え沈む。
惨(いたま)しい「運命」はただ悲しく
いく日いく夜もここにきて手辛く襲ふ。
塵溜の重い悲みを訴へて
蚊は群(むらが)つてまた喚(わめ)く。

 一九〇七、八月

(初出・明治40年=1907年9月「詩人」)

「白日の悲み」

闃(げき)として
死せるがごとき
北海(きたうみ)の
ひるの磯浜
砂(いさご)には
熱き陽炎(かげろう)
ゆらゝめき
舞ひのぼりつゝ
白くかゞやき
なにものゝ
けはひもあらず。
干網(ほしあみ)は
いと力なく
竹竿に
黙(うなだ)れながら、
乾(から)びたる魚(うを)の
臭みの
蒸しあぐむ
にほひぞ
流(なが)る。

たゞふたり
旅の人のみ
砂の丘
つと越えきたり、
疲れたる
眸(まな)にうつるは
鈍(に)び暗き
まひるの海ぞ……

云ひ知らぬ
白日の悲(かなし)み
胸にくれ、
日は照りわたる
北海の
海の磯浜。

 一九〇七、七月
 (北陸の海岸に旅して)

「壁の土」

湿りたる壁の土――長雨に
乾かざる壁の土、黄ににじむ
おもてより息づきて
なよなよし、

湿りたる壁の土――うかゞへば
蒼蠅(あをばへ)の卵など土蜘蛛の胞衣(えな)なども、
梅雨(つゆ)の日の痛ましき病人(やみうど)に
つきそひぬ。

湿りたる壁の土――青だみて
ひぢ壊(く)ゆる簷(のき)ぎわに菌(きのこ)生え、
暗がりの腐(す)えてゆくものゝ香(か)に交(まじら)ひて
にほひせり。

湿りたる壁の土――癩(らい)に病む
乞食(こつじき)の吐息にも似たらまし。
かつかつと仄(ほの)白き愁(うれひ)ばむ額(ぬか)よせて
梅雨の日をくえゆくか。

湿りたる壁の土――長雨に
乾かざる壁の土(あたゝたき『愛』の香は
いづくにも求めえじ)ひぢ湿る
壁の土。

 一九〇七、六月

「女の胸」

糸のよりくづ、紙の屑、
汚きものをよりわけて
ふと見出(みい)でたる紅(あか)き紐――
なにとは知らず手に触れて
若き女の胸おもふ。

 一九〇七、八月

(以上詩集『路傍の花』より)


 東京芝三田町出身の詩人、川路誠こと川路柳虹(1888-1959)は14歳の明治34年(1902年)から友人との同人詩誌によって詩作を始め、京都美術工芸学校に学びながら一般雑誌への投稿を経て明治37年(1904年)には河井酔茗の「文庫」と醉茗主宰の姉妹誌への投稿に専念するようになり、醉茗が明治40年(1907年)に「詩人」を創刊すると寄稿家として迎えられることになりました。同年9月「詩人」に日本初の口語詩「塵塚(はきだめ)』を含む『新詩四章』を発表して一躍注目されるようになり、大正3年(1914年)には西条八十らの「未来」に参加しましたが大正6年(1917年)詩話会を中心となって設立、大正7年(1918年)には独立して曙光詩社を主宰、大正10年(1921年)には詩壇総合誌「日本詩人」を創刊し、詩誌「伴奏」「現代詩歌」「炬火(たいまつ)」「詩作」を相次いで主宰、金子光晴、百田宗治、平戸廉吉、村野四郎、深尾須磨子、三島由紀夫らが柳虹に師事し、河井醉茗とともに大正~昭和前半期の日本の詩壇をまとめ上げる存在となりました。詩集には明治43年(1910年)の第1詩集『路傍の花』、大正3年(1913年)の第2詩集『かなたの空』、大正7年(1918年)の第3詩集『勝利』、大正8年(1919年)の第4詩集『はつ恋』、大正10年(1921年)の第5詩集『曙の声』、大正11年(1922年)の第6詩集『歩む人』、大正15年(1926年)の第7詩集『黒い蝶』、昭和10年(1935年)の第8詩集『明るい風』、昭和22年(1947年)の第9詩集『無為の設計』、昭和22年(1947年)の第10詩集『春愁抄』、昭和32年(1957年)の第11詩集『波』があり、詩集『波』によって日本芸術院賞を受賞したのち昭和34年(1959年)に逝去、没後の昭和40年(1965年)に遺稿詩集『石』が刊行されています。

 明治の詩では明治22年(1889年)の北村透谷の長編詩「楚囚之詩」がすでに文語体ながら自由詩で書かれており、明治20年代の抒情詩も文語ながらすでに自由詩型で書かれるのが一般的で、与謝野鉄幹の第1詩集『東西南北』が刊行された明治29年(1896年)にはすでに批評家によって口語自由詩への提唱が起こっていました。しかし明治30年島崎藤村の第1詩集『若菜集』は文語自由詩によって画期的な達成を見せたので、日本の詩は小説の口語文が一般化するよりも口語化には慎重だったのです。明治38年(1905年)にはドイツ文学者の片山狐村によってドイツ現代詩の口語訳が試みられましたが、日本の若い詩人には狐村による口語詩の提唱は不評でした。川路柳虹明治38年(1906年)末から口語自由詩の試作を試みていましたが、柳虹が初めて発表した口語自由詩が河井醉茗主宰の「詩人」明治40年9月号に掲載された「新詩四章」中の「塵溜」で、第1詩集『路傍の花』収録に当たって「塵塚」と改題されています。この詩は明治40年10月の「帝国文学」で「巻頭に柳虹とかいふ人の作が出てゐる。実に最劣の詩、ではない『詩のやうなもの』ばかりだ。言文一致体の詩を作って見るのも好い事だが、煮え切らぬ思想を煮え切らぬ言文一致でやられては読者は迷惑、寧ろ『あほだら経』の方が好い。」と酷評されました。日夏耿之介の大著『明治大正詩史』では柳虹の試作に詩史的な理解を示した上で「柳虹の試作は、明らかに狐村の紹介と、訳詩例とに模したもので、この点この近代ぎらひの狐村の史価を、近代史詩に於て十分に読むべきである。」としています。つまり日夏は片山狐村による口語自由詩の提唱は現代詩史上の批評として重視していますが、実作として示された柳虹の「塵溜」には歴史的な意義しか認めていないのです。のち、戦後の昭和29年(1954年)になって、柳虹は日夏が指摘した片山狐村からの影響を「まったく視野になかった」と全面的に否定しています。また「塵溜」と同時期の柳虹の文語詩は発想においても文体においても「塵溜」と大差ないもので、柳虹における口語詩の開拓は単に構文と文末表現の置き換えに過ぎなかったのがわかります。

 しかし、生前には日本の詩人を組織するほどの支配力を持ちながら、川路柳虹ほどたちまち忘れられ、読まれられなくなった詩人も稀で、初めて口語自由詩を発表した詩人という栄誉を誇りながら、「塵溜」自体は箸にも棒にもかからない一篇の凡作に過ぎません。明治43年(1910年)の第1詩集『路傍の花』は文語自由詩と口語自由詩が半々に収録され、大正3年(1913年)の第2詩集『かなたの空』からはほぼ全編口語自由詩になりますが、文語自由詩と口語自由詩のかけ橋となった石川啄木『心の姿の研究』(明治42年=1909年)や『呼子と口笛』(明治44年=1911年)、高村光太郎『道程』(大正3年=1914年)、山村暮鳥『聖三稜玻璃』(大正4年=1915年)、萩原朔太郎『月に吠える』(大正6年=1917年)、また散文詩型ながら全編を口語詩で通した河井醉茗の第4詩集『霧』(明治43年=1910年)と較べても着想は陳腐、行文は稚拙、仕上がりは凡庸と何の取り柄もなく、見るべき点は自然主義文学的な醜悪な現実のリアリズム描写にしかないでしょうが、文体に緊張感がまったくないので嘱目程度の現実味すらなく、空想としても想像力の力すらほとんど働いていません。明治末~大正~昭和と、生前には川路柳虹は啄木や高村光太郎山村暮鳥萩原朔太郎一人一派の詩人が持ち得なかったほどの名声と地位を誇る一流詩人と目されていました。没後間もない昭和40年代までには文学全集、詩人全集類にも一流詩人並みの扱いで作品が収録されています。高村光太郎萩原朔太郎は「詩話会」や「日本詩人」に敵対意識すら持っていましたが、多くの詩人は詩作発表にあたって川路柳虹の世話になっていたので、金子光晴ですら詩人ギルドの長としての川路柳虹の功績を徳としていたほどです。川路柳虹という詩人の存在とその詩は大正~昭和の日本の詩のもっとも凡庸な水準点を示しており、この詩人がいなくても河井醉茗の門下から出た別の詩人が同じ役目を果たしたようなものでした。「塵溜」は川路柳虹が書かなくても同じように凡庸な詩人が似たようなものを書いただろうと思われる、詩としての手応えがまるでない、日本の現代詩の不毛を代表するような詩です。しかしこれが一定の役割を果たしたのも否定できないので、標準的な人間の運動能力をオリンピック選手やプロのアスリートの統計からは計れないように、「塵溜」程度の凡作で越えられるハードルだったからこそ日本の詩の口語自由詩化は大正改元を境に急激に進んだとも言えます。