先日引っ越しが済んで、しばらくニュージーランド出身のイギリス作家キャサリン・マンスフィールド(1888~1923、享年34歳)の全集を読み返していましたが、短編作家だったマンスフィールドは書簡集や日記を除くと短編集5冊(『ドイツの宿にて』1911年、『幸福』1921年、『園遊会』1922年の3冊が生前に、『鳩の巣』1923年、『まるで子供のように』1924年の2冊が文芸批評家の夫、ジョン・ミドルトン・マリの編集によって没後に)のみ、総計約90篇の短編しかないので(マンスフィールド作品の魅力はまた次の機会にします)、次に読み返す作家を探していたところです。ちなみに一巻本の選集でマンスフィールドのほぼ全貌を知るには、安藤一郎編・訳の新潮文庫版の『マンスフィールド短編集』もいいですが、初期から晩年まで代表作や注目作を編年体で収録して1篇ごとに解説が添えられ、マンスフィールドの生涯のと作品をたどった、約20編収録の岩波文庫版の選集『マンスフィールド短篇集 幸福・園遊会 他十七篇』が入手の容易さ、端正な翻訳、丁寧な解説で最上です。マンスフィールドは「イギリス女流作家版チェーホフ」と呼ばれた(実際チェーホフからの影響の強い)作家ですが、その繊細さや観察眼、詩的な語り口はチェーホフの数々の名品・小品とともに、マンスフィールドの生前には遺稿がまとめられていなかった19世紀のアメリカ詩人エミリー・ディキンソンが公刊を意図せず書き溜めていた膨大な詩篇や、樋口一葉、梶井基次郎、太宰治、上林暁、木山捷平ら人心を知った日本人作家の最上の短篇に匹敵します。
そこで、今読み返したい小説というと、およそマンスフィールドとはまったく逆な、ウィリアム・フォークナー(1897~1962)の作品です。ことにフォークナーの作品中初めて読んだ『八月の光』は、図書館にあった文学全集「新潮世界文学」(昭和44年~45年、全49巻のうちフォークナーの巻は第41巻『兵士の報酬』『響きと怒り』『サンクチュアリ』「エミリーにバラを」「あの夕陽」、第42巻『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』『野生の棕梠』)の加島祥造訳で初めて読み、新潮文庫の同じ加島祥造訳で再読、三読と愛読しましたが、フォークナーの三大傑作とされる『響きと怒り』(1929年)、『八月の光』(1932年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年)のうち、呪われたアメリカ南部の家系を描いた『響きと怒り』『アブサロム、アブサロム!』より、疎外された人間(そして母性原理による疎外と貧困からの希望)というテーマを真正面に据えた、この『八月の光』が一番訴求力に富んだ傑作と思います。中上健次さんご存命の頃に新宿紀伊国屋書店で「中上健次の選ぶ100冊」に設けられた臨設コーナーでも、中上さんが選んでいらしたのは『八月の光』で、中上さんに先んじてフォークナーに傾倒していた井上光晴さんも『八月の光』を最高傑作に上げていらしてました(井上光晴さん、中上健次さんはともに「日本のフォークナー」と自負していた方々です)。初めて抑圧されたアメリカ南部家系の問題を取りあげた先行作品『サートリス』(1929年)のテーマをさらに拡大し、掘り下げた印象もあります。突然神父の長々とした回想になったり、ヒッチハイカーのヒロインたちを乗せたトラック運転手が奥さんに話す寝物語で締める、群像劇的な構成も冴えていて、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』影響下の実験性が強い、視点人物や時間軸の整理された『響きと怒り』、あまりに複雑な構成の『アブサロム~』よりストレートな迫力があります。ウィリアム・スタイロンやガルシア・マルケスは二度読めませんが、フォークナーは何度でも再読に耐えます。学生時代に翻訳全集を全巻読みましたが、ぼくは『兵士の報酬』(1926年)、『サートリス』(1929年)、『死の床に横たわりて』(1930年)、『八月の光』『標識塔(パイロン)』(1935年)、『野生の棕梠』(1939年、映画『勝手にしやがれ』でヒロインが読んでいました)といったストレートに訴えかけてくる作品が好きできで(1931年の問題作『サンクチュアリ』はちょっと保留)、中でも『八月の光』は随一と思います。
フォークナーはロスト・ジェネレーション(第一次世界大戦経験世代)の作家として、帰還兵問題を扱った瑞々しい第1長編『兵士の報酬』(1926年)でデビューしましたが、先にデビューしていたスコット・F・フィッツジェラルド、アーネスト・ヘミングウェイらの清新さに比べると題材自体がやや時流遅れで、ほとんど注目されませんでした。第2長編『蚊』(1927年)は先輩作家シャーウッド・アンダソン、またイギリス作家オルダス・ハックスリーの作風をなぞった風刺小説で、これも失敗作に終わります。フォークナーが独自のテーマを見つけたのは、フォークナーの郷里ミシシッピ州に架空の地域「ヨクナパトーファ郡」(以降のフォークナー作品はほとんどヨクナパトーファ郡を舞台にすることになります)を設定して、南北戦争敗戦以来60年以上を経て1920年代にも続くアメリカ南部社会の南部家系の抑圧と混乱を主題とした第3長編『サートリス』でした。
長編第4作にして最初の傑作長編『響きと怒り』は全四章、各章はアメリカ南部のサトペン家の四人兄弟(現象認識ですら定かではない知的障がい者の弟も含む、しかも第一章はその弟の視点から断片的に語られる)の語りか視点で時間軸はバラバラ、語り手に含まれない妹とともに、家族関係の確執や兄弟の一人に起こった直接語られない悲劇(妹との近親相姦的愛憎や自殺)も、時制を見分けてよほど丹念に読むか再読しないと全容が見えてこない実験小説です。続編『アブサロム、アブサロム!』はさらにサトペン家の呪われたルーツまで掘り下げ、構成や内容は極度に複雑を極めます。
次作の第5長編『死の床に横たわりて』は大家族の母親の葬送の一部始終を描いたブラック・ユーモア味の強い作品で、回想を含んだ息子たちの語りが短い章でバトンタッチされ(何と死後の母親のモノローグすら出てきます)、内容も葬送に絞られていますからコンパクトで読みやすい作品です。アースキン・コールドウェル(『タバコ・ロード』)風にいかにもアメリカの田舎町のローカル色の出た、ブラック・ユーモア色が強いのも親しみやすいです。
短編小説「エミリーへバラを」(1930年)はアンソロジー類にもたびたび収録される妖しいムードのグロテスクなホラー作品で、ポーの「黒猫」、アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の奇妙な事件」を思わせる鮮やかなオチがつきます。ただしあまりに小説、映画、マンガ、アニメへの影響力が強いので、現在の読者には冒頭数ページでオチが読めてしまう難があります。
第5長編『死の床に~』まで全然売れなかったフォークナーがスキャンダラスで売れる小説を書いてやる、という意気込みで書いた第6長編『サンクチュアリ』(1931年)は『八月の光』のジョー・クリスマス的人物が初めて登場する作品で、女子大生への異常な強姦事件を題材に、加害者と被害者の精神的危機を描いています。結果的に同作でフォークナーは追及していくテーマをつかんで次作の第7長編『八月の光』で掘り下げていくことになり、これもコンパクトで読みやすい作品です。フォークナーは1929年に第3長編『サートリス』、第4長編『響きと怒り』を連続刊行していますが、初めて呪われた南部家系というテーマ(いわゆる「ヨクナパトーファ・サーガ」)に着手した作者がこの2作の間に「疎外された人間」像を発見し、それらが一気に傑作『響きと怒り』や『八月の光』、第9長編『アブサロム、アブサロム!』に結実したと思うと、資質ある作家の創作力の爆発として、この時期から1930年代いっぱいのフォークナーは類を見ないほどです。
駆け落ちカップルの放浪遍歴と、まるで関係ない隠居老人の話を交互の章で進めていく第10長編『野生の棕梠』は、やはり駆け落ちカップルの彷徨を描いたヘミングウェイの『武器よさらば』へのフォークナーからの回答で、視点や時間軸の錯乱もなく読みやすい小説です。フォークナーの恋愛小説はこの『野生の棕梠』と、曲芸飛行士夫婦とその親友の三角関係を描いた第8長編『標識塔(パイロン)』でしょう。
日本で言えば新感覚派(横光利一や川端康成)と同世代のフォークナーは生涯多作で意欲的な作家でしたが、ノーベル文学賞を受賞した戦後前後、1940年の第11長編『村』以降の作品は明らかに盛りが過ぎて、処女作『兵士の報酬』や初めて南部家系のモチーフを打ち出した第3長編『サートリス』よりも、ぐっと出来が劣ります。フォークナー最後の傑作は中編小説「熊」(1942年の短編集『行け、モーゼよ、その他』収録)で、父に連れられて初めて熊撃ちを体験した少年の成長物語です。フォークナーは実質的な長編と目せる連作短編集を含めるとちょうど20作の長編小説を残しましたが、遺作となった1962年の『自動車泥棒』は谷崎潤一郎で言えば『台所太平記』に当たる、くつろいだユーモア小説でした。フォークナーは『ユリシーズ』(1922年)の作家、ジェイムズ・ジョイス(1882~1941)影響下のモダニズムの小説家でしたが、モダニズムが陥りがちのフォルマリズム(サミュエル・ベケット作品のように、それはそれで可能性のあるものですが)はもともとフォークナーの資質ではなく、『サートリス』から『響きと怒り』にかけての3作でドストエフスキーやジョセフ・コンラッドの流れを継ぐ人間性の解体と黙示録的認識に進みました。そこがフォロワーのスタイロンやガルシア・マルケスがフォークナーに及ばないところです。同じモダニズムの作家でも横光利一や川端康成ら日本のモダニズム作家とは風土の違いを感じさせ、また親友でライバルだったヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ドス・パソスらとも異なる南部アメリカに舞台を徹底した土着性が、作品に黙示録的な神話性とリアリティを与えています。昔読んだ時に印象的だった箇所を拾い読みしてみても、改めて視点の鋭さと叙述の密度に圧倒されます。フォークナー作品には連続性やテーマの発展があるので、最初にどの代表作から読むにしても、短篇作家マンスフィールド同様、諸作を年代順に追って(あるいは気の向くままに)再三読むにつれ理解が深まっていく作家です。単独作品ごとの新訳とは言わず、文庫版で『フォークナー選集』(長編小説10巻、短編集2巻で収まるでしょう)として、主要作品をシリーズ化してほしいものです。