人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

「こころ」の真相(上)

ブログをやってらっしゃる方はご自分でもお書きになっているくらいだから、読書好きの方も相当いらっしゃると思われる。まあ文章などは必要最小限読み書きできれば日常生活に支障はないのだが、遊びというのはルールを周知しているほうが腕も上がるし楽しめる。そうでなければ興味も続かない。
よってブログ管理者の諸氏は特に印刷媒体に限らなくても平均以上に言語情報にまみれていると推察するが、ウィリアム・バロウズ(「裸のランチ」の)によれば言語はヴィールス、しかも印刷媒体よりももっと手軽で効率的な媒介手段も発達・定着した今は、かえって今後何かの弾みで旧共産主義国のように「国家公認」以外のすべての言論が規制されるかもしれない。ヴィールスの蔓延を防ぐにはそれしかないからだ。

拘置所に入ると未決囚同士は原則的には一切の会話を禁じられる。弾圧、またはヴィールスの浄化。釈放されても外の世界で普通にやっていたことすらすぐには感覚が戻らない。道のどの位置を歩けばいいのか、切符はどうやって買えばいいのか、時間を確かめるにはどうすればいいのか、そんなことまでわからなくなっている。拘置所での現実が圧倒的だったことと共に、日常を把握する感覚を失ってしまっているのだ。おそらく言語喪失によって。
ぼくは独房で釈放の日を待ちながら日中はずっと日記をつけていた。受刑者の不適応については知識があった。釈放されたらまた言葉の世界に戻るのだ。生活を一から建て直すにはぼくは自分が何者かを会う人ごとに説明出来なければならない。適切に演じなければならない。
躁鬱病の2度目の病相から半年ほど経っていた。いや、その時は5年前までさかのぼる躁鬱病だとすら知らなかった。ぼくは独房で自分で自分に言語ヴィールスをチャージしていた。時にはこういうこともある、と思うとバカらしいやら可笑しいやらで釈放後の生活はまるで予測がつかなかった(そして実際、まるで予想外に進んだ)。

ここまでが前振り(笑)。
夏目漱石「こころ」はお読みの方も多いと思う。あれほど読者をケムに巻く「名作」はない。特に「先生」の真意と「私」との関係が釈然としない。
そこに約25年前、国文学者K氏から仰天の新説が出た。先生が私に接近し、意味深長に翻弄して自殺したのは私を先生未亡人の再婚相手とするためだ、というのがK氏の解釈だ。