人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

1・幻覚、幻聴、入院

囚人番号3036、これも生涯忘れないでしょうね。他には突然の来訪者(セールスや宅急便など)、五感すべての知覚過敏から来る緊張、恐怖、不安、興奮。夜中にドアががんがんノックされ、ドアのノブががちゃがちゃされている、そういう幻聴は頻繁でした。
起きている時でも質感を伴った幻覚すらあります。部屋の隅に人間の形で空気が凝縮しているのが見える。そのまわりに、人間の体温で空気が揺らいでいるのも見える。これは割と一般的な幻覚のようで、精神科入院の時にアルコール依存症から統合失調様の病相になった女性患者とも話しました。ひとりの部屋に、人がいる。夜中だけでなく、日没後はそうです。
彼女は見えない猫が脚にすりよってくる。「おれもあるよ。娘が一緒に寝ていて、寝息や匂いや体重、体温まで伝わって来るんだ」「そう!体温まで伝わって来るのよ!」
ぼくなど今では娘と添い寝の幻覚があると、幸せで得した気分になるくらいです。夜中のノックもまだたまにありますが、また幻聴かよ、という感じです。
彼女は夜中は激しい幻覚に襲われるので拘束されていました。映画「シャル・ウィー・ダンス?」のヒロイン似の40歳の独身女性でした。「こんな刑務所みたいなところだけど(ぼくは自分の入獄経験は話しませんでした)、入院してホッとしてるの。ここなら自分がおかしくなってもなんとかしてくれる」
アルコールの離脱症状が終わったら依存症治療の専門病院に移ることになると思う、と彼女は言いました。ああ、だったらこの辺じゃあそこになるね。おれも去年の春先に酒浸りになって掛り付けのクリニックから入院させられた。気楽なところだよ。のんびり休んでくるくらいの気持でいいよ。まだ引き返せるだろ?
「まだ引き返せるかな?私、肝硬変だよ。腹水溜まってる」
一瞬返答に窮したが、
「引き返せるよ。おたがいまだ先は長いだろ?」
彼女はぼくの手を握りしめてきました。まともに会話ができる人って佐伯さんだけだわ。
-そしてぼくは3か月半の入院を終えて、3日後に退院しました。
肝硬変までいけば機能不全になった肝細胞の復帰はない。肝臓ガンに進むのを阻止するために服薬と断酒しかない。それでも残存した肝細胞の負担からガンに進行していかないとは限りません。
だからぼくは彼女に美しい嘘をついた。希望という嘘を。