『誘い』
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爛漫たる桜の樹の下で、一人の男が絵を描いていた。男の目は半ば眠っているかのようにどろんとしていた。男は時時画布から首を傾げては犬のようにあたりを嗅ぎ廻った。次の日、私はやはり桜の樹の下で、桜の幹に抱きついて、幹の匂いを熱心に嗅いでいるその男を見た。三日目には、画布だけが桜の樹の下に建てられてあった。不審に思っている私の頭上で、突然、桜の花びらが一散に落ちて来た。驚いたことには、昨日の男が桜の枝の上で昏昏と眠っていた。実は、眠っていると思ったが、そうではなく、男は桜の匂いの中で全く混乱に陥入っていたのだった。そうしてまた私はその男の姿に魅せられて了ったのだ。その夜、私は桜の上の男が、悶絶しながら地上に墜落した夢を見た。翌朝、私はとるものも取敢えず現場へ直行した。果たせるかな画布は昨日の姿勢のままで置かれてあった。男の姿は遂に発見することが出来なかった。が然し桜の根方に夥しい血滴がはじまって、池の方に続いていた。池には蓮の葉が油ぎった舌嘗をしていた。その日、初めて私はその画面を熟視すること
ができた。画面はまるで解剖図のように、触るとずるずる崩れて了うのではないかと思えた。それから二日経っても三日経っても、男は再び桜の樹の下へ現れて来なかった。私は意を動かして、その画布を家へ持ち帰った。その翌日から私に不思議なある欲望が勃りはじめた。半日を費やして、私はピアノを庭園へ運んだ。そこで私は思う存分鍵盤を擲ぐった。私は軽い目眩と痙攣の後、心快い嗅覚をふり廻しながら、朧気に鍵盤を叩いていた。
(「作品」1930年10月)