前回の高橋新吉詩集「ダダイスト新吉の詩」1923の紹介で、日本では本場のダダの分裂期にダダが輸入されたためあっけなくダダ運動はコミュニズム、抒情詩、シュールレアリスムに分散した、と述べた。高橋と宮澤賢治の影響は詩誌「歴程」の同人たちに大きく、「歴程」はまた高村光太郎の寄稿誌でもあった(シュールレアリスム=モダニズムの詩誌「詩と詩論」と抒情詩の詩誌「四季」がともに萩原朔太郎を仰いでいたように)。
高橋より6歳下の中原中也は高橋の模倣に近いダダイズムの詩を書いていたが、上京後はダダから独自に発展した抒情詩の詩人になり「歴程」「四季」「文学界」(川端康成・横光利一をパトロンとした小林秀雄中心の文学批評誌)に股をかける。中原が詩人として自己確立したと自他共に認めるのは中原20歳の年だが(1927年)この年の日記は中原には珍しく集中した詩論が見られる。
「世界に詩人はまだ三人しかおらぬ。/ヴェルレエヌ/ラムボオ/ラフォルグ/ほんとだ!三人きり」(4月23日)また、6月4日には「毛唐はディレッタントか?/毛唐はアクテビティがある」と棒線で区切り「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治」と5人の現代詩人を挙げている。称賛か不満か微妙だが(ディレッタントにとどまらないアクテビティを持つ例外的な日本の現代詩人とも、その例に洩れないとも取れる)、この箇所は中原中也を論じる誰もが引用する現代詩人評価でもある。
中原中也は一介の自費出版詩人だった宮澤賢治(「春と修羅」1924)にいち早く注目するとともに、辻潤の長文解説のついた話題作「ダダイスト新吉の詩」1923に自分の詩の方向性を見た(この詩集は山村暮鳥「聖三稜玻璃」1915ほどの論議に晒されはしなかったが、中原や小林の友人の夭逝詩人・富永太郎ですら評価をためらっている)。
中原が特に愛唱したのは連作「1921年集」(『皿』はその49)から『8』、
少女の顔は潮寒かった
歌ってる唄はさらわれ声だった
山は火事だった
-だったという証言がある。たしかにここには中原だからこそ注目した新しい抒情がある(おそらく高橋自身にも自作の抒情的側面は無自覚だったと思われる)。中原が山口県出身で、愛媛県出身の高橋と「潮」風で相通じる感受性を持っていた、といえば話が狭すぎるだろう。それぞれのダダがあったのだ。