高橋より6歳下の中原中也は高橋の模倣に近いダダイズムの詩人だったが、上京後はダダから独自に発展した抒情詩の詩人になり「歴程」「四季」「文学界」(川端康成・横光利一をパトロンとした小林秀雄中心の文学批評誌)に股をかける。中原が詩人として自己確立したと自他共に認めるのは中原20歳の年だが(1927年)この年の日記は中原には珍しく集中した詩論が見られる。
6月4日には「毛唐はディレッタントか?/毛唐はアクテビティがある」と棒線で区切り「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治」と5人の現代詩人を挙げる。称賛か不満か微妙だが、この箇所は中原を論じる誰もが引用する現代詩人評価でもある。この5人の重要性は詩人たちだけが見抜いていた。
「戯言集」1934に戻ろう。
7
此の我々の愛情 考え
之等のものが 凡て空に消え去るものであろうか
此の悲しみの試練に耐え 此の肉体の苦難に堪えて 私は更正するか しないかの瀬戸際にある
8
希望を持って生きたい
心の希望を失う程人間にとって落莫たるはない
例えば死んでから後に 極楽に往生する事を信じないで生きている事 或は死ぬ事などは私には出来ない
9
君に将来の希望を与える
其のかわり現実の虐遇に甘んじて居れ
若し君の現実が楽しいと言うなら
君の将来に希望がないからだ
10
頭をつかい過ぎて気が狂った男
しかし彼は今 頭をつかい過ぎる程 つかわなくては生きて居られないようになっている
11
人間がどれほどの悲哀に堪え得るものかは 人各々意見を異にするであろう
だが人間が経験する以上の悲哀がそれなれば此の世に存在するか 誰しも人間はそれがある事を否定するに違いない
自分の悲哀憂鬱寂蓼が一番大きく甚く痛感される事を 人々は知らないのだろうか
そして自己の悲哀を他人の悲哀と比べたりなんかするには及ばないのだ
(以下次回へ)