今日は長女の14歳の誕生日。関東は昨夜から雨で、外出する人には申しわけないが、部屋住みの人間には適度な雨は気分が安らぐ。今は鬱も軽い時期で、気持の切り換えも早くなったな、と自分でも思う。離婚までの病状、最後の別れの娘たちの不安げな表情、重鬱で心身ともぼろぼろだった離婚決定までの別居生活、警察に足どりをマークされ(それを知らず)別れの挨拶に(元)妻子の住むマンション前まで行くと、待ち構えたようにやってきた覆面パトカー。
それが2007年5月23日で、9月12日に判決が下り保釈されるまで110日間を獄中で過ごしたのだった。5年前はまだ2週間あまり囚人だった。ぼくは告訴状が作成され検察庁に受理されるまでは逮捕されたのですらなかった。任意同行・拘置、と名ばかりの強制連行・拘置だった。ぼくの有罪判決はその年の新条令(違犯)のモデルケースとしてでっち上げられたものだった。
それをすべて認めたのは妻への譲歩だった。それで頑なな気持を少しでも和らげてくれたら。だがぼくがひとり暮らしになりすぐ連絡先を伝えに電話すると、妻はぼく名義の娘たちの学資保険の名義変更とぼくの書斎の荷物について訊ねてきた。ぜんぶ処分していいよ、と答えた。
「処分する方が面倒なのよ。引っ越し代は私が出すわ」だったら学資保険はぼくが払おう。そのくらいはさせてくれないか?
「それは出来ないのよ」
「どうして?」
「あなたにはもう親権がないの。学資は親権者だけなのよ」
ぼくの住むマンションの真ん前に歩道橋があり、朝8時には小学生の集団登校の待ち合わせ場所になっている。毎日、朝昼夕何時でも娘たちのことを考えないことはなかった。娘たちの仕度や送迎、お弁当と朝夕食は足かけ10年すべてぼくがやってきたのだ。娘たちの看病や自分自身の大病でフリーランスのぼくは仕事を失った。郵政民営化直前の郵便局勤めの妻は娘たちの看病どころか家事さえする時間的ゆとりはなかった。長女の友人のお母さんも郵便局員だったが、製菓会社勤めのお父さんは鬱で半年休職し、子供部屋の二段ベッドで首を縊った。それをきっかけに、ぼくははっきりと発症した。
「パパ、眠るまで一緒にいて」と長女はよく言った。お片づけがあるからね、とまだ妻の帰宅しない家で晩酌しながら家事をした。もう娘たちの横で眠ることもない。たぶん一生。