人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(11)ザ・テンプターズの光と影

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サイケ時代のビート・グループとして、ザ・カーナビーツと並びもっとも純粋なGSはザ・テンプターズだった。レコード契約は日本フィリップスで、スタジオ・ミュージャンでは出せない「バンドの音」にこだわり、積極的にバンドの自作曲を奨励した。ライヴでは洋楽カヴァーも多かったが、テンプスの録音レパートリーの9割はリーダー松崎由治の作詞作曲。アレンジはバンド全員。
オリジナル曲でも他のGSは作詞は外部作家に委託する例が大半だった中で、テンプターズはストレートな歌詞も魅力だった。

○「ザ・テンプターズ・ファースト・アルバム」1968.6(画像1)
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テンプターズは65年7月、大宮の高校生によって結成された。翌年3月からは地元のダンスホールの専属バンドになる。やがて中学生の萩原健一が加入、スパイダースの事務所「スパイダクション」に入社し、東京のクラブやテレビ出演で人気を集める。ここまでの経歴はほとんどタイガースと同じで、デヴュー前からヴェテランだったブルー・コメッツやスパイダースより10歳あまり若い世代になる。この第一作はデヴュー・ヒット(両面)『忘れ得ぬ君』『今日を生きよう』、第二弾シングル『神様お願い』他オリジナルとカヴァー半々だが、オリジナルはかっこいいビート・サイケ、カヴァーもテンプスらしいラフでロウな感覚を楽しめる。

○「5-1=0 ザ・テンプターズの世界」1969.2(画像2)
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シングル第三弾で外部作家への初の委託曲『エメラルドの伝説』68.6(なかにし礼作詞・村井邦彦作曲)はバンドの作風にも違和感なく、ショーケンの名唱、松崎の鮮烈なギターで初のオリコン1位に。それからアルバム先行になった第六シングル『雨よ降らないで』69.3までを含み、全曲オリジナル(13曲中委託作品3曲、松崎作品10曲)という画期的なセカンド・アルバムがこれで、アウト・キャスト「君も僕も友達になろう」と並ぶビート・サイケの傑作。演奏力の向上も目覚ましく、年間300日を越えるライヴの隙をぬって8か月間を費やした労作だが、その甲斐はあったのだ。

○「ザ・テンプターズ・アンコール」1971.1(画像3)
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だがその後のテンプスはライヴ盤1作、テンプス名義だが萩原のソロ1作を出して人気凋落、後期シングルを集めた「アンコール」を発表して解散。二度と集結することなかった。