人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

(28c)ケニー・ドーハム(tp)

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前回ジョン・コルトレーンは享年40歳で195枚のアルバムを残したが、ケニー・ドーハムは享年48歳で105枚、と書いた。一見倍以上差があるようだが、コルトレーンは23歳から40歳までに195枚で、ドーハムは22歳から録音歴があるが40歳・96枚目(1964年)のアルバム(参加作含む)でブルー・ノートとの1947年以来の契約(一時リヴァーサイドに移籍)を切られ、72年の死去までオムニバス盤か、ワン・ショット契約しかなくなる。いちばん脂の乗った40代に本格的なアルバムを残せなかった(オムニバス盤を入れても9枚しかない)。あ、結局倍なのか。
64年はちょうどブルー・ノートにとってもジャズ界全体にとっても新旧世代の交替が微妙な時期だった。マクリーンは残ったが、ドーハムは残れなかった。マクリーンすら67年で契約は終了し、5年ほど実質的に引退状態になる。マクリーンがヨーロッパのインディーズから復帰作を発表した年、ドーハムは鬼籍に入る。悪戦苦闘しながら50代で再び脚光を浴びたチェットと較べても、ドーハム晩年の不遇はつらい。
だがドーハムにとって60年代前半は実りの多い時期だった。「ショウ・ボート」1960、「ウィッスル・ストップ」1961では50年代の延長にあるが、マクリーンとの双頭リーダー作「インタ・サムシン」1961、「マタドール」1963では作風が一新される。ブルー・ノートからの「ウナ・マス」1963(画像1)ではハンコック、トニー・ウィリアムズ、ブッチ・ウォーレンというマイルス+モンクの混合リズム・セクションに新人テナー、ジョー・ヘンダーソンを起用。マクリーンに次ぐヴェテランの新境地を見せた。ヘンダーソンとは翌年にかけて6枚を共演、特にヘンダーソンの初リーダー作「ページ・ワン」1963(画像2)では名曲『ブルー・ボッサ』を提供する。

そしてアンドリュー・ヒルの「ポイント・オブ・デパーチャー」1964での健闘を果して、ついにブルー・ノート最終作で事実上の早すぎる遺作「トランペット・トッカータ」(画像3)がやって来る。ピアノはトミー・フラナガン、ドラムスはアルバート・ヒースという50年代派、テナーはヘンダーソン、ベースはリチャード・デイヴィスという60年代派。このギリギリのメンバーでブルー・ノート新主流派ジャズをやるのだ。結果は当時のマイルスの向こうを張る力作になった。だが契約更新はなかった。