人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

送らなかった手紙

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(「伯母からの年賀状」連作・その11)

いただいたコメント、再読三読いたしましたが、何をおっしゃっているのか理解できませんでした。ただ、唯一判るのは、ぼくの事態はそういうものではない、ということです。
ではどんなものか、それをうまく説明する方法自体が思い当りません。そもそも自分自身をわかっていない人間が自己について語る虚しさに突きあたります。
回想することはできます。-小学生の頃、人の平均寿命は70歳(当時)と聞いて、父は1938年生まれだから2008年なんだな、と思うとつらくてならなかったこと。なのになぜか母や自分のことは考えもしなかったこと(理由はつく気がします)、などなど。ですが回想は回想でしかない。

以下はある女性に書いて、送らなかった手紙です。
「ありがとう。今までのあなたからの来信で一番すっきりご自分を説明されたメールでした。少なくともぼくには、あなたのことが『やっとわかった』という気がしました。
ずっと前のメールではあなたはご自分を観念的に語っていて、観念化されたものは等身大ではありませんから肥大した主観的な歪みを感じました。これは文章としては健康ではありません。それは真実ではあっても可能性の中の、可変的なものでしかありません。
ぼくは今はプロでもなんでもないのでただ作文を楽しんでいるだけですが、もし強みがあるとしたらどんなどん底でも耐えてきたこと、どんな罪でも被ってみせること。孤独、自由。希望。何物・何事にもとらわれないこと。
ぼくはそういう将来を早くから予感していたし、学歴、自動車免許や海外旅行などまったく関心がなく、欲望など全方向に無縁であったこと。おそらくあなたの目がぼくの小文にとまったのはそのあたりでしょう。その上ぼくは世間の価値などなんとも思っていません。しかも自分の尺度にも固執しません。ぼくはクリスチャンで、じかに神と対峙しながら生きています。おそらくこの信念がなければ獄中生活など耐えられなかったでしょう。
むしろぼくの文章はあなたを愚弄し、拒むものです。ぼくの小文が気になるとすれば、それはあなたご自身が自分のとらわれていることから解放されたいからでしょう」

なぜ送らなかったか?それはこの手紙のなかにある偽りに気づいたからです。ぼく自身が自己欺瞞に満ちていること、それ自体が懲罰でした。