(連作「ファミリー・アフェア」その16)
彼女は18歳で秋田県の人口4000人の小さな町からひとりで上京してきた。上京は憧れでもあったし高校以上の進学を実家に許されなかったこともあり、父親は税務署長、母は郵便局勤め、兄は高校教師という家庭環境もあった。それに地方では郵便局の求人はまったくない。若く健康でいつも笑顔だったから窓口に立つ彼女にはお客からこれまで3回お見合いの話があった。3回とも先方は乗り気になったが彼女は断った。
「だってつまらなかったんだもの」
次の週は平日晩に彼女の勤める隣駅のレストランでデート、週末には新宿で映画を見た後タイ料理店で食事し、静かな喫茶店で話すうちに終電近い時間になったが、離れられなかった。新宿南口のエレヴェイター・ホール脇にもたれて、もうその時は近づいていた。
ぼくは彼女にキスした。
長いキスだった。最初ぼくの首にまわしていた腕が、しだいにだらん、となったので慌てて脇に腕を差し入れた。そのまま彼女はぼくに支えられて崩れてしまった。呼びかけに答え、自分の足で立てるまでに30分かかった。どうしたの?もう平気?今日はタクシーで帰ろうね。
タクシーが走り始めて彼女が訊いてきたのは、
「…これからあなたのことを、なんて呼んだらいいのかしら?」
だった。好きに呼べばいいよ、と答えながら、なにもタクシーの中でこんな話は勘弁だったが、ぼくはまだ彼女が崩れた時の衝撃と落ち着きが戻った時の安堵の中にいた。
宿舎で彼女を降してそのまま自分のアパートに帰宅すると、留守番電話が入っていた。
「無事に帰りましたか?今度の土曜日は会えますか?あなたのアパートに行ってもいいですか?」
疲れていたのでコインシャワーを浴びに行き(ぼくは風呂なしアパートに住んでいた)、返事は翌日の昼に留守電で済ませた。いいですよ。お昼を外で食べて、ぼくのアパートに案内しましょう。
駅前の中華料理店で注文を済ませると、彼女はきっぱりと、
「今日は泊めてもらいに来たの」
と、言った。ぼくは言葉を失ったが、いいの?とだけ訊いた。
「あなたとは運命だと思うの。いいのよ」
夜、銭湯から帰って彼女は寝室に入った。「待っててね」
やがて襖が開き、胸元まで毛布で覆ってぼくに振り向いた彼女がいた。こんなに女性の背中を美しいと思ったことはなかった。