人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

精神疾患の話の続き

精神疾患について書くのは微妙で、ましてや反社会的な問題行動につながる症状となるとタブーに触れかねない。精神障害者即反社会的存在と見られかねないからだ。これは逆に反社会的な存在以外の精神障害者に対する想像力不足とも裏腹で、それを感じとれるのは障害者本人以外にないことが事態をややこしくしている。

数か月前に鍵つきコメントで同じ人から何度も難じられたことがある。ぼくのブログ記事は精神疾患患者の尊厳をないがしろにしている、というのだ。具体的には父の葬儀にも呼ばれず、知らされすらしなかった(今でも報せはない)件について二週間くらい書いたのだが、それは事態を受け入れて気持が落ちつくまで必要な時間だった。その人が何を指してそう言うのかわからない。

精神疾患の友人からピンサロに行こうと振り回されたことか?それはぼくと友人の個人的な出来事でしかない。精神疾患の人間は親の死に目にも葬儀にも呼ばれなくて当然とぼくは主張していたか?それはぼくの実家の判断で、ぼくは自分の身に起きたことを書いただけだ。
要するにこの人は気にくわないのだ、と思った。しばらくすると訪問も止んだ。そもそも批判的なコメントを寄せるなら公開にすべきだろう。辻斬りみたいな匿名コメントはたまにある。それは文筆業だった人間として覚悟はある。

だが障害者の尊厳への侮辱などと言われると放っておけない。この人の意見なら信頼できる、という人に相談した。ぼくの文意はちゃんと伝わる、と教えられてホッとした。文章がまずいせいで誤解を招いていたら責任はぼくにあるからだ。その場合は原文は残して、きちんと訂正しなければならない。そうしなければ自分にとってためにならないだろう。

この場合は偏見をもっていないつもりの人が偏見の目で誤読した、という気の毒な例だった。職業経験からくる耐性がなかったら、早い話「お前みたいなやつは迷惑だ」という主旨のコメントは精神障害者には打撃は大きい。誤読自体には寛容でいられるが、論点も根拠も明確でない批判は虚しい。

この作文もその人には精神障害者のひがみと見えるだろうか。精神障害者が作文するのは負担も覚悟も相当なことで、ぼくみたいに毎日2000字書いているのはごく少数の躁鬱病者の特徴だから精神疾患全般では特殊な例でしかない。明日はその話題を書こう。