一週間前の写真をまた載せる。いかにも芸がないが、まず葉桜とは関係がない画像3からご覧ください。
これは創元社「現代日本詩人全集」第13巻(昭和30年)の西脇順三郎編の「著者近影」で、この全集では肖像写真と書き下ろし自伝がフォーマットだが、西脇は自伝の方も書き下ろしの詩で済ませている。全集全体でもこんなふざけたことをしているのは西脇だけで、詩人はこの頃「近代の寓話」から「第三の神話」、「失われた時」へ続く創作力のピークにあった。40歳でデビューし、60代で絶頂期を迎えた珍しい詩人だったのだ。何をいまさら著者近影という気持もあっただろうが、出版社もよく許したものだ。こんなアイディアは本人の発案に違いなく、どうせなら辺鄙な田舎道を歩いているところを遠くから撮ってほしい、私の詩はそういうものだからと言い張ったのだろう。確かに西脇順三郎の詩はそういうものばかりだ。
画像1と画像2は先週撮った葉桜並木の写真だが、実はここにも点景人物がいる。これだけ離れていれば問題はないと思うが、若い女性が画像1に、母子連れが画像2に写っている。あまり人通りのない道だが、まったく無人になることもないので、あまり近づいてこないうちに撮ってしまった。この距離(しかも携帯)では桜の写真を撮っている人がいるな、とは思われてもまるで警戒はされていないだろう。撮った本人も後で見直すまで通行人が写り込んでいるとは気づかなかったくらいだ。
たぶんこの若い女性とも母子連れとも二度とすれ違うことはないだろうし、すれ違っても気がつかないと思うが、もののあわれは大袈裟だしこの世の刹那ならなにもかもがそうだが、人と人というのも鳥や猫のようにすれ違うものだ、と感じる。程度の差はあれ、すれ違いでしかない。
サミュエル・ベケットの長編「事の次第」は泥の中を這っていく意識を追った小説で、主人公はただの「意識」でしかないが、事件も中盤にひとつしか起こらない。他の「意識」と出会いしばらく行動をともにするが、またすれ違っていくだけだ。ベケットは人生の暗喩として書いているわけではないが、小説の構成要素をぎりぎりまで削ぎ落とすと、内容はこれだけで十分ということになる。
それは葉桜並木の道にたまたま通行人がいたようなもの、というと強引になるだろうか。ともあれ、もうすぐ初夏がやってくる。