西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)
「内面的に深き日記」
一つの新鮮な自転車がある
一個の伊皿子人(イサラゴジン)が石けんの仲買人になつた
柔軟なさうして動脈のある斑點のあるさうして
これを広告するがためにカネをたゝく
チン\/ドン\/はおれの生誕の地に住む牧人の午後なり
甘きパンの中でおれの魂は
ペルシヤの絨毯と一つの横顔と一枚の薄荷の葉を作る
ミレーの晩餐の中にゐる青年が
穿いてゐるズボンのやうに筋がついてゐないので
ブク\/して青ぼつたいのは
悪いことである
夕暮が来ると
樹木が軟かに呼吸する
或はバルコンからガランスローズの地平線を見る
或は星なんかが温順な言葉をかける
おれの友人の一人が結婚しつゝある
彼は両蓋の金時計をおれに啓示した
ボタンをひくと
その中で
アンジエルスの鐘が鳴る
それをほしいといふ気が太陽の如く起る
修道院の鐘が驢馬に向つて
チンカン\/となる
これは人をして呼子笛を吹奏さす
朝めしの中に夕日がある
紅色のオキアガリコボシ
おれの傾斜の上におれはひとりで
垂直に立つ
価値なき多くの屋根の向方に
地平線にデコ\/飾られたシヤレた
森の上にのつかつてゐる
黄色い異様な風雅を備へる一個の家を見る
こんな森はおれに一つの遠くの人生を想はしめる
しかし柔い土壌は悲しい思想の如き植物
を成長さすために
都会の下から農業地帯の中へ
オレンヂ色のしとやかな牛が
糞便を運送する
人間の腐敗した憂鬱をもつて
サラドを成長させるとはいた\/しい
されどこの辺り
恋愛を好む一人の青年がひとりで
歩行してゐる
トロンボンを吹け
色彩のきはめてよいズボンツリを購ひ
首府を去りさうして三日にして
砂地の地峡に己れ自身を見る
終日 燈台を眺めながら
青い莢豆の中で随分紙煙草を吸ふ
しからざれば
芸術とか人文とかを愛好する人達より遠く分離して
胡瓜と鶏頭との花に有名な一都会にて
猛烈にマッチを摺る
教会堂がまた一時間の四分の一を宣言する
ジアコンド
ストローベリイ
一つのペンキ塗のホテルの後で
呼吸する冷朗たるさうして非常に気の毒な
秋の中におれははひる
肉なき松柏類は地平線の中で徘徊する
ハウレンサウの如きは静かである
すべては寝室のスリッパになつたと思ふ
おれの脊髄で内部に幾分のチョコレートを感じ
我が肺臓の中にタンポゝとスミレを入れて
ギュイヨー夫人の小学読本をよむ
沈黙の二重の塔はいづこに
射的場は近いのである
(大正15年=1926年7月「三田文学」)
*
これも西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)の日本語(それまでに英語詩集、フランス語詩集があります)の第1詩集『Ambarvalia』(椎の木社・昭和8年=1933年9月)の後半をなす「LE MONDE MODERNE」中に「失楽園」の総題でまとめられたもので、「失楽園」自体が前月の「三田文学」6月号に発表されたフランス語の長詩「Paradis Perdu(失楽園)」の西脇順三郎自身による日本語訳でした。同年4月に西脇は大正11年(1922年)~大正14年(1925年)にわたるイギリス留学を経て32歳で慶應義塾大学英文学科教授に就任したばかりでしたが、大正15年7月の「三田文学」に同時掲載された4篇「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」が西脇順三郎にとっては32歳にして初めての詩作であり、発表作でありました。西脇も元来文学青年でしたが、渡英直前に購入して留学時にも持ち歩いていた萩原朔太郎の『月に吠える』を読むまではイギリスを始めとするヨーロッパ文学のみに傾倒していて、一応島崎藤村の詩集を始め明治・大正の詩を読んではいても「日本語で詩は書けない」と考えていたのです。西脇が唯一日本語でも詩が書けると考えたのが『月に吠える』で、のちに西脇は世界文学的に唐詩や松尾芭蕉にヨーロッパの古典文学と匹敵する優れた文学性を見い出しますが、詩集『Ambarvalia』は西脇独自に萩原朔太郎を唯一の師とする日本語詩の可能性に挑戦したものでした。
この「内面的に深き日記」のタイトルはフランス詩人ボードレールの遺稿『赤裸の心(内面の日記)』のパロディであり、ボードレールの遺稿は晩年のボードレールが日記代わりに書いていた内省録的なものでしたが(「私の母は変わった人だった」「ある人から日本人は猿のようなものだと聞いた」などが有名です)、西脇の場合は通常日本語の意味が持つ「内面的に」深いというのを逆手に取ってまったく「内面的に」深くない詩をあえて書いてみた、というのがイロニーになっています。この詩もイギリス留学中のヨーロッパ遊学をと帰国してからの日常風景を対照的に題材にした詩ですが、造語や何を指しているのかわからない暗喩、文法破壊によってほとんど内容は消し飛び、何も表現しない詩に近づいているので、西脇を指導的詩人として表彰した詩誌「詩と詩論」に拠る若い世代の詩人にはその無償性だけが強調されて受け継がれ、言語によるポップ・アート(という概念はまだ生まれていませんでしたが、実体としてはその先駆をなすもの)的な文学がダダイズムやシュルレアリスムをより自覚的・方法的に整備したモダニズムの手法と狭く解釈されたのです。西脇自身はシュルレアリスム(超現実主義)には懐疑的で、萩原朔太郎の詩が石川啄木らの自然主義文学を土台に成立しているように、自分の詩もシュルレアリスムを通過して生まれたのではなくシュルナチュラリズム=超自然主義の立場にあるとしていました。「世界開闢説」にしてもこの「内面的に深き日記」にしても内容はいわば日常詩(Slice of Life)であって、修辞が珍妙でデフォルメの度合いが激しいために前衛的な詩に見えるだけです。「色彩のきはめてよいズボンツリを購ひ/首府を去りさうして三日にして/砂地の地峡に己れ自身を見る/終日 燈台を眺めながら/青い莢豆の中で随分紙煙草を吸ふ/しからざれば/芸術とか人文とかを愛好する人達より遠く分離して/胡瓜と鶏頭との花に有名な一都会にて/猛烈にマッチを摺る」と、これを散文として読んでしまえば「内面的に」深いか深くないかはともかくタイトル通りの平凡な「日記」の一節にすぎません。西脇の発明、と本人は思っていなかったでしょうから萩原朔太郎から学んだものでもいいですが、それはこうした平凡な散文が行分け詩の体裁を取った時に日常を超える詩になり得る、と示したことでした。西脇順三郎が最初ではないにしても、従来「詩」が「詩人」の特権的な感受性によってのみ存在するといった古典的な詩観に、詩と詩人に特権的な感受性などない、と自覚した時点から詩作を始めたのが西脇順三郎であることは確かです。そして明治以来の現代詩は、大東亜戦争~太平洋戦争の敗戦までほとんど詩人であることに特権的な感受性などない、と気がつかない詩人によるものだったのも確かです。西脇順三郎が戦後、もっとも尊敬され現代詩の第一人者とされたのも学識や知的エリートとしての地位ではなく、もっとも早く詩人の感受的特権性、詩のナルシシズムの虚偽を見抜いていた詩人だったからでした。ただし戦後の詩は、西脇順三郎よりもはるかに切迫した出発点から始まることになったのです。