人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

室生犀星「舌」(詩集『昨日いらつしつて下さい』昭和34年=1959年8月刊より)

(室生犀星<明治22年=1889年生~昭和37年=1962年没>)
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舌    室生犀星

みづうみなぞ眼にはいらない、
景色は耳の上に
つぶれゆがんでゐる、
舌といふものは
おさかなみたいね、
好きなやうに泳ぐわね。

(「婦人公論」昭和30年=1955年5月号、エッセイ集『続女ひと』新潮社・昭和31年=1956年3月刊「女ごのための最後の詩集」収録・詩集『昨日いらつしつて下さい』五月書房・昭和34年=1959年8月刊収録)


 この詩は「婦人公論」に発表の後、ベストセラーになったエッセイ集『随筆女ひと』(新潮社・昭和30年=1955年10月刊)の続編『続女ひと』(新潮社・昭和31年=1956年3月刊)の巻末未刊詩集「女ごのための最後の詩集」に収録され、さらに同未刊詩集を増補した単行詩集『昨日いらつしつて下さい』(五月書房・昭和34年=1959年8月刊)に収録されました。室生犀星は「女好き」を公言してはばからない詩人でしたが、67歳の年に刊行された『随筆女ひと』のベストセラーによって戦前の小説家転向以来の人気以上の流行作家となり、翌昭和31年(1956年)には短編集『舌を噛み切った女』、長編小説『妙齢失はず』『三人の女』、エッセイ集『続女ひと』と女性を描いたベストセラーを連発し、新聞連載小説『杏つ子』は昭和32年(1957年)の大ベストセラーになり読売文学賞を受賞、映画化も大ヒットします。翌昭和33年(1958年)の回想録『我が愛する詩人の伝記』もベストセラーになり毎日出版文学賞を受賞、昭和34年には詩集『昨日いらつしつて下さい』と金魚に究極の美少女の姿を投影した幻想小説『蜜のあはれ』が評判を呼び、長編小説『かげろふの日記遺文』で野間文芸賞受賞と、70歳を越えて旺盛な筆力を誇りましたが、同年には犀星のファンから結婚して40年あまりを添い遂げていた5歳年下の夫人が病没します。犀星は生涯夫人を崇拝していました。夫人没年の翌年には若かった頃の夫人をモデルにした長編小説『告ぐるうた』を刊行しています。この頃から健康を害していた犀星はかねてから宿願だった全既発表詩集の改稿版定本『室生犀星全詩集』をまとめ、昭和37年(1962年)3月に刊行しますが、同月下旬に入院し意識不明となり、3月26日に永眠しました。没後刊行にエッセイ集2冊、短編集2冊が残されていたほど晩年まで創作力の衰えを見なかった大作家でした。また没後に萩原朔太郎室生犀星に師事した三好達治を中心に浩瀚な『室生犀星全集』全12巻・別巻2巻が編まれましたが、全集に洩れた小説・エッセイだけでもさらに7巻分以上あり、『室生犀星全詩集』に収録されていたのも生前発表詩篇の1/3以下という膨大な創作を残したのが判明し、全集と匹敵するほどの全集未収録作品全集まで編まれることになりました。

 「舌」と同時発表に「婦人公論」に掲載され、全詩集・全集未収録になった詩篇には、やはり舌の感覚をテーマにしたこんな詩もあります。

  あぢのない黄金

キスには
黄金(キン)を舐めたやうなあぢがある、
あぢのないあぢの黄金に
舌のさきがすべつて
舌のお友達が笑つてゐる、
美味しいものね。

 室生犀星の追悼エッセイで、西脇順三郎は「舌」を「マラルメ的である。マラルメ以上ともいえる」「奇異なイマージュをつくっている」と絶讃しましたが、西脇順三郎は631行の長編詩「菜園の妖術」、171行の長詩「音」、364行の長編詩「えてるにたす」の3篇を収めた昭和37年12月刊の詩集『えてるにたす』のあとがき「エピローグ」で「室生犀星は『室生犀星全詩集』で「永遠」という言葉を捨てたと聞く。私はそれを拾ってこの詩人の霊のために「永遠」という言葉を出来るだけ多く使って一文を草した。」と書いています。その通り『えてるにたす』は詩集タイトルから収録長編詩まで「永遠」づくしですし、西脇が翌昭和38年の『西脇順三郎全詩集』に書き下ろした未発表新詩集『宝石の眠り』に唐突に最終行を「永遠」で終わる名作「まさかり」を書いたのも、室生犀星が全詩集の改稿で「永遠」を削ったことへの返歌でした。

 室生犀星が「舌」を詩集に収録し、「あぢのない黄金」を詩集未収録にしたのは詩篇の完成度からも明らかですが、この2篇を較べてみると抽象度では「あぢのない黄金」の方が高いのは詩の皮肉を感じます。「あぢのない黄金」はいわば空想だけによってなりたった詩で、舌の味わいを黄金に喩えた着想だけで詩が完結してしまっています。一方、西脇順三郎が「マラルメ的」「マラルメ以上」と絶讃する「奇異なイマージュ」の詩「舌」はエロティシズムの詩で、一読何の情景かわかりませんが、これは具体的には男性(おそらく老境)が女性(おそらく若い娼婦)にクニリングスをしている情景の詩です。前半3行「みづうみなぞ眼にはいらない、/景色は耳の上に/つぶれゆがんでゐる、」は行為に没頭している(おそらく老境の)男の視点(「みづうみ」が指すのは何か言うまでもないでしょう)、後半3行「舌といふものは/おさかなみたいね、/好きなやうに泳ぐわね。」は(おそらく若い娼婦の)女性のことばです。この場合実際に女がそう言葉にしていなくてもいいので、詩人の耳にはそういう言葉が聞こえてきたということです。究極の美少女像を金魚に見て金魚と対話する幻想小説『蜜のあはれ』の着想と同じです。エロティシズムを象徴詩に書いたマラルメ的かはともかく、「舌」が完成度や想像力の喚起性においてはるかに「あぢのない黄金」に勝るのは抽象度を捨て具体性に徹したむき出しのエロティシズムによるもので、この簡潔さに達した犀星が全詩集の改稿で過去の自作から「永遠」という抽象語をことごとく削除したのもひとつながりのものでしょう。かなり以前にこの詩をヤフーブログでご紹介した時、「記事を読んで好きだった武者小路実篤の詩が嫌いになりました!」と中年女性の方に責められたことがあるのですが、なぜ武者小路実篤が出てきたのか不可解ながら「舌」のような詩をクニリングスの情景の詩と知って不愉快になる方もいらっしゃるかもしれません。しかしこれを不愉快に感じるとしたら詩の言葉と日常言語が根本的に異なっていることへの不快感なので、「舌」は、また多くの本当の詩は、日常言語とは違った次元で詩として成立しているのです。