人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源・番外編 / 西脇順三郎詩集『近代の寓話』より「無常」

(創元社『全詩集大成・現代日本詩人全集13』昭和30年1月刊より、西脇順三郎肖像写真)

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詩集『近代の寓話』昭和28年(1953年)10月30日・創元社刊(外箱・表紙・裏表紙)

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  無 常           西脇順三郎

バルコニーの手すりによりかかる
この悲しい歴史
水仙の咲くこの目黒の山
笹やぶの生えた赤土のくずれ。
この真白い斜塔から眺めるのだ
枯れ果てた庭園の芝生のプールの中に
蓮華のような夕陽が漏れている。
アトリエに似たこのサロンには
ガンボージ色のカーテンがかかつている。
そこで古のガラスの洋杯を蒐める男が
東方の博士たちへ鉛とエナメルと
バラスターの説明をしていた。
饗宴は開かれ諸々の夫人の間に
はさまれて博士たちは恋人のように
しやがんで何事かしやべつていた。
ノーラは美しく酒をついだ。
(笹薮に雪がちらつと降って
雉子の鳴く声きけば
この失われた夜のことを憶うのだ。)
やがてもうろうとなり
女神の苦痛がやつて来たジッと
していると吐きそうになる
酒を呪う。
虎のように歩きまわる
ふと「古の歌」という本が
ひそかに見えたと思つて
もち出して読もうとするとそれは
《verres anciens》だつた。
客はもう大方去つていた。
とりのこされた今宵の運命と
かすかにおどるとは
無常を感ずるのだ
いちはつのような女と
はてしない女と
五月のそよかぜのような女と
この柔い女とこのイフィジネの女と
頬をかすり淋しい。
涙とともにおどる
このはてしない女と。

 (「GALA」昭和27年3月発表)


 詩集『近代の寓話』全52編で巻頭から10番目に置かれているこの「無常」も西脇順三郎の膨大な詩集中でもピークを示す傑作と名高い作品です。新倉俊一氏の『西脇順三郎全詩引喩集成』(筑摩書房・昭和57年9月刊)によるとこの詩は西脇が勤めていた慶応大学教授たちの家族パーティーに材を採っており、西洋グラスと浮世絵の蒐集家の家に集まった一夜の情景ですが、詩集表題作「近代の寓話」が教員の慰安温泉旅行に材を採りながら自然と死と永遠についての黙想になっていくのと同じ無常感への考察になります。書き出しの「バルコニーの手すりによりかかる/この悲しい歴史」からこの詩は決まっていますが、新倉氏が西脇順三郎に直接確かめた『西脇順三郎全詩引喩集成』によるとこれは『リルケ書簡集』(原著'47年刊)の挿画のミュゾット城にたたずむリルケの肖像写真から着想された詩行で、5行目「この真白い斜塔から眺めるのだ」の詩の舞台になっている上目黒の蒐集家の邸宅を呼び起こしています。11行目「東方の博士たち」は聖書のマタイ福音書の東方からの博士たちに、この詩の大学教授たちをなぞらえたものです。
 16行目「ノーラは美しく酒をついだ」は西脇順三郎が戦前のイギリス留学時から生涯愛読していたアイルランド出身の作家、ジェイムス・ジョイスの夫人の名前がノーラで、ジョイスは終生流浪の亡命生活を送った作家で、その夫人ノーラも波乱の生涯を送った女性で、2000年にはノーラ夫人の伝記映画映画『ノーラ・ジョイス 或る小説家の妻』(日本公開2001年)も製作されています。ジョイスは戦時中の'41年、ノーラ未亡人は'51年(この詩の前年)亡くなったので、ここでふと夫人たちの一人をノーラと呼んでみたのでしょう。21行目~25行目にかけて酒の悪酔いに襲われた詩人は26行目「ふと「古の歌」という本が」と、これはフランス語で「vers anciens」と見えたということで、ヴァレリーにも同名詩集('20年刊)がありますが、29行目「《verres anciens》だつた」つまり「古い本」ではなく「古いグラス」だったと来て、30行目~最終行40行目はギリシャ神話で女神アルテミスの恵みによって風に運ばれて救われたイピゲネイア(イフィジネ)への連想も含めて詩の大きなクライマックスになります。しかしそれら、この詩「無常」に動員された引喩の出典を知らずとも「無常」は率直で簡潔な感動を呼び起こすので、他人の家に招かれて飲み過ぎて後悔するなど成人男女なら誰にでもある経験ですが、この傑作「無常」を書けたのは西脇順三郎だけだったのは言うまでもありません。