人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

療養日記・4月17日(水)曇り

療養日記といっても通院以外は部屋で安静にしているだけだから特に書くようなこともない。こないだ触れたアイルランドの作家、サミュエル・ベケット(1906-1989)でいえば、ぼくは「マーフィー」38(ひとりの男が逃げ回った挙げ句事故死する話)や「ワット」53(正体不明の男がやってきて去って行く話)を過ぎて三部作の「モロイ」51(ひとりの男を父子連れが自転車ふたり乗りで追跡する話)、「マロウンは死ぬ」51(男が密室で死ぬまで手記を書き続ける話)、「名付けられぬもの」53(状況不明の状態で男が延々とモノローグを続ける話)の、「マロウン~」の段階なのだろう。

先日触れた「事の次第」61(泥濘の中を進む正体不明の意識体の感覚と別の意識体との邂逅)でベケットは頂点に達し、これらはどれも現代文学の極北的金字塔なのだが、そんな極北は嫌だという人も多いだろう。演劇に興味がある人なら「ゴドーを待ちながら」46の作者といえば通じるか。ふたりの男が焦々しながらゴドーという男を待っている。「ゴドーさんは来ません」という使いの少年が来る。第二幕、翌日。同じふたりがゴドーを待っている。使いの少年が来る。「ゴドーさんは来ません」。少年が去った後無言で立ちすくむ男たち。これが20世紀後半の演劇を決定した作品で、確かにベケットには言いたいことがあるのだ、ということはわかる。

青少年時代の闇雲な読書も後になると、格別愛読したのでもないのに思い出すと和んだ気持になるものも多い。ベケットはそれで、あんなものがなぜと思うが、30年前に読んで今だに覚えているくらいだからきっと共鳴するものがあるのだろう。そういう意味ではぼくはベケットの作中人物みたいに生きてきた、ということだ。
ベケットの作中人物のいいところは、(1)恋愛しないこと、(2)病気にならないこと、だが、ぼくはその面ではずたずたなので両極端は一致する、と見たい。人間味のない状況ではどちらも同じことだ。純粋な意識でしかない状態は哲学的に崇高でもなんでもなく、肉体と精神が乖離しているようなものだ。

これが集団的療養生活ならそうしたことも感じないかもしれない、と思うとこれまでのデイケア患者会、入院生活を思い出してぞっとする。ぼくにはそれらは学校より嫌で、拘置所よりはましでしかなかった。ベケットを思い出すのは、きまってそういう時だ。