人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

ベケット、小説の絶対零度

小説に絶対零度というものがあるなら、サミュエル・ベケット(1906-1989,1969年ノーベル文学賞受賞)をおいて他にないだろう。アイルランド出身でフランス移住者であり、ジョイスの愛弟子であると共にプルースト研究家で、作風はカフカの衣鉢を継ぐ。戯曲の代表作、「ゴドーを待ちながら」52同様、ベケットの小説では何も起らない。永遠の待機か、または、
「女たちは墓穴にまたがって生み落とす-一瞬陽がさして、あとは真っ暗」
(「無のための短編とテキスト」55より)
-という死生観のみが描かれる。長編小説の代表的三部作から冒頭部分をご紹介する。
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私は母の寝室にいる。今ではそこで生活しているのは私だ。どんなふうにしてここにやってきたかわからない。救急車かもしれない。なにか乗り物で来たには違いない。だれかが助けてくれた。ひとりでは来られなかっただろう。毎週やってくるあの男、私がここにいるのはあの男のおかげかもしれない。あの男は違うと言う。あの男は私に金をくれて、書類を持っていく。書類をどっさり、金もどっさり。そう、今では私は仕事をしている。ただもう仕事の仕方がわからない。そんなことはどうでもいいらしい。私は今では私に残されたことを話して、死にきりたい。
(「モロイ」51)
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とうとうもうじき私は完全に死ぬだろう、結局のところ。たぶん来月。というのは四月か五月のはずだ。というのは今年になってからまだそれほどは経たない、それはいろんな細かいことでわかる。私の見当が狂って、聖ヨハネ祭(6月24日)が過ぎても、いや七月十四日、革命記念日が過ぎても私は生きているかもしれない。実のところ、聖母被昇天祭(8月15日)までとは言わぬとも、キリスト変容祭(8月6日)までなんとか喘ぎ続けていることもないとは言えない。だが、そうはなるまい。そんな気がする。しかし生れてこの方ずっと私はこういう気分に欺れてきた。
(「マロウンは死ぬ」51)
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さて今度はどこ?いつ?だれ?そんな自問はせずに私は、と言うことだ。考えもせずに。それを問いと呼び仮説と呼ぶこと。前に進むこと、それを進むと呼び前進と呼ぶことだ。ある日最初の一歩を踏み出したというのに私はそこに留まっていた。それはこんなふうに始まったのかもしれない。私はもう一切自問しまい。
(「名づけえぬもの」53)