(1)[ビートルズ解散についてのポールの功罪]
前回の文脈だとどうしてもポールに責があるように見えますが、実際はライヴ活動休止以降、なんとかビートルズを存続させてきた功績はポールにありました。ポールが踏ん張らなければビートルズは「Sgt.ペパーズ」の後自然消滅していた可能性が高いでしょう。他のメンバーは余技的なソロ活動を始めており、ビートルズというブランドに最後まで執着したのがポールでした。だからビートルズの解散を最終的に決定したのもポールでした。そのためにジョン、ジョージ、リンゴの3人を告訴までしています。きれいな終り方だったかはともかく、「マジカル・ミステリー・ツアー」「ホワイト・アルバム」「アビー・ロード」「レット・イット・ビー」はポールの尽力によって成立したアルバムです。「Sgt.ペパーズ」でビートルズが自然消滅していたら、これらも存在しなかったと思うと慄然とします。
(2)[オノ・ヨーコという存在]
小野洋子さんは、ビートルズ解散直後のジョンへの長編インタビュー「回想するジョン・レノン」(旧邦題「ビートルズ革命」画像上)でも同席して、ほとんどジョンと同等の分量の発言をしています。一年ほど前に載せた記事ですが、日本初のロック・フェスのドキュメンタリーがありました。会場の郡山市は市議会一致で反対でしたが、洋子さんの出演が決まると、手の平を返して賛同されました。三井財閥令嬢だから、という理由です。1974年の日本人の発音は今では幼稚きわまるものでしたが、洋子さんだけは今日でも通じる明瞭な発声で整然とした発言をしており、知性と教養を感じさせると共に、一種の無国籍性をも漂わせていました(洋子さんはそれまで郡山という地名を知りませんでした)。
本来なら成り上がりの庶民出身芸能人と洋子さんのような美智子様・雅子様クラスの財閥令嬢の結婚はイギリスでも日本でも不可能です。ポール夫人のリンダは映画フィルム会社のイーストマン・カラー令嬢でしたが、再婚者で娯楽産業と親近性があったから可能だったのです。ジョンとヨーコの関係は、それほど強いバイアスがかかったものでした。どちらの発言も、それを念頭に置く必要があります。
ちなみに洋子さんはライヴでオーネット・コールマンとも共演しました(アルバム「ヨーコの心」70・画像下収録)。ジョンは終生、ジャズが大嫌いでした。