人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

精神病棟にて・非常ベル☆おばあさん

(この女性のことも以前書いたが、興味深いので改めて書きたい)。

妄想患者Tの話と同じ書き出しになるが、ぼくと同室のKは二階の入院患者ながら、就寝前の服薬は三階のナースステーションに行くことになっていた。要するに夜勤では慢性症状の入院患者が多い三階に看護婦が常駐していて、二階のナースステーションは夜間は無人になっていた(見回りに来る程度)ということだ。これはTの話より後に起きた事件だった。

ぼくとKが服薬を済ませて戻ろうとすると、ナースステーションに面した談話室の物陰から看護婦に見つからないようにだろう、しゃがんだ姿勢でつま先だけで小走りに小柄な老婆が追いかけてきた。思い詰めた表情以上に、そのカニ走りの異様さにぼくとKは立ちすくんだ。
「待ってください。お願いです」と老婆は、とっくに固まっているぼくとKに呼びかけてきた。ぼくとKは横目で無言の会話を交わした。また変なのにつかまったぞ、どうする?とりあえず相手をして無難にかわすしかないな。おれたちのことは一晩たてば忘れているだろうし。

「どうか小銭を貸してください。明日にはお返ししますから」
「テレフォンカードはお持ちでないんですか」
「取り上げられています。…娘の家が火事なんです。窓から見えます。ほらあそこ、早く通報しないと」
もちろん火事など見えはしない。ぼくとKは目配せしあった。
「お金の貸し借りは禁止されていますが、小銭があるか探してみましょう。何号室ですか?お休みになっていてください」

もちろんぼくとKはそのまま放っておいた。お婆さんも覚えてはいなかった。
だが数日後の夜中に病棟中に非常ベルが鳴り響いた。こういう時は患者は自分の階の談話室に集合・待機する決まりになっている。
「あの婆さんだな」
「たぶんね」
「病院に消防車を呼んで、娘の家に向わせるつもりなんだろうな」

翌日、翌々日も非常ベルが鳴り、三階の非常ベルは夜間は切られることになった-が、一日おいて婆さんは二階に降りてきて非常ベルを押すようになった(一階は外来なので、夜間は昇降口は施錠される)。
結局夜間は、当直交替時刻には二階と三階の昇降口にまで施錠されることになった。二階の患者は就寝前の服薬の時だけインターフォンで三階を開けてもらう、という不便が生じた。この入院は、トラブルメイカー続出だった。