人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小林秀雄の唯一の詩作

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

『死んだ中原』小林秀雄

君の詩は自分の死に顔が
わかって了った男の詩のようであった
ホラ、ホラ、これが僕の骨
と歌ったことさえあったっけ

僕の見た君の骨は
鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたてていた
君が見たという君の骨は
立札ほどの高さに白々と、とんがっていたそうな

ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってはみたが
とうとう最後の灰の塊りを竹箸の先きで積ってはみたが
この僕に一体何が納得できただろう

夕空に赤茶けた雲が流れ去り
見窄らしい谷間いに夜気が迫り
ポンポン蒸気が行くような
君の焼ける音が丘の方から降りて来て
僕は止むなく隠坊の娘やむく犬どもの
生きているのを確めるような様子であった

あゝ、死んだ中原
僕にどんなお別れの言葉が言えようか
君に取返しのつかぬ事をして了ったあの日から
僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった

あゝ、死んだ中原
例えばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

(昭和十二年十二月『文学界』)

20世紀の日本の文芸批評家をひとり、とアンケートすれば結局この人、小林秀雄(1902-1983,画像1)が選ばれるだろう。確かに小林は批評そのものを文学にした最初の人で、今なお解決されない問題を提起し続けた文学者だった。

小林が中原中也(1907-1937,画像2・3)と知りあったのは1925年(小林23歳・中原18歳)のことで、前年に京都在住だった中原は小林の大学の先輩の詩人・富永太郎(1901-1925)の知遇を得て女優の卵の恋人と上京してきたのだった。
だが四月に小林と知ってわずか半年後の11月には中原は小林に恋人をとられ(と言うより逃げられ)、同月に絶交されていた富永も結核で夭逝する。その後中原は、小林と共に同人誌『文学界』の中心人物となる河上徹太郎(1902-1980)の仲介もあって『文学界』『歴程』『四季』の三誌に関係するのだが、画像を見比べていただきたい。画像2は16歳、画像3は30歳で、先日ご紹介した草野心平にとっての中原は後者だろう。だが35歳の一流批評家が追悼詩を書くと、こんなに幼稚なものしか書けなかった。そこが面白い。