フェリーニはロッセリーニやデ・シーカ、ヴィスコンティら先輩監督たちを追い抜いて国際的な名声を獲得した人で、北欧映画におけるベルイマン、日本映画における黒澤明と似た立ち位置を第二次大戦後の映画界に占めました。黒澤には木下恵介、ベルイマンにはおそらくワイダやムンク、スコリモフスキらのポーランド映画勢が脅威だったと思われます。ベルイマンがブルジョワ映画の到達点であるように、戦後ポーランド映画もコミュニズムの限界を芸術性で突破する糸口をつかんでいました。
黒澤にも、溝口や小津、清水、成瀬ら戦前すでに巨匠の風格を見せていた先輩監督より、まったく資質の異なる木下こそが目障りだったに違いありません。東宝と松竹の違い以前に、『羅生門』『七人の侍』の監督は『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾歳月』は作れません。もちろん木下も黒澤のような映画は作れませんが、黒澤には人情映画の試みが何度もあり、いわば木下の土壌でも勝負を仕掛けては、『生きる』や『赤ひげ』や『どですかでん』で賛否両論を招いてきたのです。
今ひとつ冴えない遅咲きの先輩アントニオーニが『さすらい』を発表して、誰よりも焦ったのはフェリーニだったでしょう。フェリーニ自身の同年の新作『カビリアの夜』は、『道』の主題をヒロインの観点から、都会を舞台に描いたものでした。フェリーニにとっては必然性のある内容でしたが、世界がその都度イタリア映画に求める斬新な作品ではなかったのです。
『さすらい』のエピソード形式、一貫した物語性の廃棄とイメージの積み重ねによる衝撃を、フェリーニが自己流に応用したのが『甘い生活』でした。しかし、次作『81/2』がモスクワ映画祭グランプリを受賞したように、フェリーニは悪は外的なものであり純粋な人間性は善としか描けないのです。
フェリーニのその後の作品は常に目新しい題材が選ばれましたが、『さすらい』『情事』『夜』と続くアントニオーニ作品は一貫しており、『太陽はひとりぼっち』を頂点として『赤い砂漠』『欲望』『砂丘』とマナリスムの傾向をたどり、晩年の『さすらいの二人』『ある女の存在証明』『愛のめぐり逢い』は10年に一作の制作でした。非常に評価しづらい映画作家です。ですが歴史はまだアントニオーニとフェリーニに優劣をつけてはいないのです。