人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

アメリカ喜劇映画の起源(2)

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 初期の映画は無論モノクローム・サイレントで、トーキー映画は1928年、テクニカラーは1938年に実用化されました。60年代末までモノクローム映画も並存したのは三層式テクニカラー・フィルムが高価で撮影技術も困難なのと、60年代末に一層式のイーストマン=コダック・フィルムの開発でようやくモノクローム・フィルムと同等のコストと機動性が実現したこと、さらにテレビ放映を考慮すればカラー映画の方が受け入れられやすいことで、70年代からはカラー映画が新作映画の標準になります。ただしイーストマン・カラーは劣化や褪色が早く、60年代初期のものなどオリジナル・ネガからレストアしないと20年代モノクローム・サイレント作品、30年代のテクニカラー作品よりも画質が著しく落ちる場合があるという欠点が指摘されています。

 再び初期の映画に戻ると、最初はドキュメント映像そのものが珍しく、やがて撮影トリックを用いた見せ物映画が作られて、舞台撮影による劇映画に発展していきました。いち早く長編劇映画が発達したのはイタリアで、『カビリア』1914などは実物大の城の大セットを超巨大スタジオに建設するなど、のちの合成撮影、CG技術がない分本物の実物大を作り、俳優がアクションの実技を見せるという今日の常識からすれば途方もないものでした。

 ただしイタリア映画では撮影そのものは基本的に舞台劇の記録映像でしたが、それまで中短編映画で試みてきたカットバック、モンタージュ、クローズアップなどの映画ならではの技法を駆使した初めての長編劇映画は、アメリカのD.W.グリフィス監督作品『国民の創生』1915で上映時間は三時間を越えるものでした。その後の劇映画は基本的にはすべてグリフィスの創出した映像技法によって作られている、とすら言えます。この作品の大ヒットを受けてグリフィスは翌年さらに実験的な大作『イントレランス』を巨額の制作費をかけて勝負に出ましたが、興行収入は悪くないものの巨額すぎた制作費を回収するには叶わず、膨大な赤字を出して実質的には致命的な破産をしてしまいます。

 しかしその後もグリフィスの作品群は素晴らしく、直接の門下生からははラウォール・ウォルシュやエーリヒ・シュトロハイムを輩出しましたし、ハリウッド自体がグリフィスが自社の撮影スタジオを建てたことで片田舎から一挙に映画産業の都市になり、同時代のアメリカ映画すべてにグリフィスの影響が及び、世界各国の映画界にとってもアメリカ映画が最先端になったと言えます。アメリカ喜劇映画も当然、いわばグリフィスの時代に成立したものでした。グリフィスの助監督出身のマック・セネットこそアメリカ喜劇映画の父と呼ばれる先駆者です。