人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

腱鞘炎の思い出

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今はこういう便利なものができているのを知ったのはかかりつけの薬局の薬剤師さんがしていたからで、彼女がしていたのはピンク色のサポーターだったが(サポート・バンドというと別の物を想像する)、妙齢の美人が腕に巻くにはファッションとしてはマニアックな気がする。だいたいどういう機能のものかもわからない。そこでごく自然に気づいた風情で、どうなさったんですか、と訊いてみた。これを眼を爛々としてハァハァしながら訊いたら変態になってしまう。
腱鞘炎なんです、と爽やか美人の薬剤師さんは言った。ああ、なるほど。痛いですもんね、経験あるのでわかります。薬剤師さんは右の手首にそれを巻いていた。ぼくの時は利き腕ではない方の手首でした。デスクワークだったので、動かす手ではなく押さえる手首に負担がかかったようです。
私は利き腕です、と薬剤師さんは右手をグーパーし、今は不自由だから左利きで作業しています。それも不自由でしょう?痛い手を使うよりはいいです。器用でらっしゃるんですね。ぼくがなった時は、片手では仕事にならなかったです。痛み止めの薬を飲んで、湿布して包帯を巻いていても痛いし。それは効き目はどうですか?

いいですよ、痛みはほとんど感じなくなりますし、と彼女は薬局内に陳列してある実物を持ってきて見せてくれた。着脱も簡単です。あ、ほんとだ。今は便利な物があるんですね、包帯はずれるしほどけるしで不便でした。それに見た目も大げさでなくていいですね。これ以上訊いていると変なマニアみたいなので止めておいた。世の中には傷病萌え(マニア)というのもおり、包帯・眼帯・松葉杖に萌えるという嗜癖は19世紀にはもう文学や美術に観測されている。自転車の発明は1810年代のドイツだが、普及当初から婦人用自転車のサドルの盗難が相次いだそうで、今でもママチャリのサドルの盗難は自転車置き場でよく見られる。19世紀では自転車の価格は今日の自動車とほぼ同額だったそうだから、自転車など富裕階級の婦人のものだったのだ。変態性癖と階級闘争が一致した珍例だろう。
包帯・眼帯・松葉杖は日本のアニメでは一種のアイコン化している。これも指摘するまでもない。70年代にはアダルト雑誌の領域だったものが、90年代には放送媒体にまで乗るようになったということだ。

つまらない一般論は止めて近過去回想から遠過去回想に移ると、新婚三か月頃のある日、朝起きると左手首が激痛で、あまりの激痛に意識が飛びそうなほどだった。掛け布団に左手が少し触れただけでギャッと声を上げそうになった。
新婚三か月頃は結婚式からの勘定で、入籍からは半年後、新妻は妊娠八か月だったので産休に入って間もなくだった。出版制作の末端仕事で幸いなのは納期さえ間に合えば時間の融通が利くことで、職場に電話を入れて朝一番に近所の整形外科を受診した。医者も看護婦も無愛想で乱暴だった。手首の上の腱を木槌でガン、と叩かれた時には悲鳴を上げてしまった。
腱鞘炎だから、と医者は面倒くさそうに言って、看護婦がぐちゃぐちゃに湿布の上から包帯を巻くと、痛みが治まるまで安静にするように、あまり痛いなら鎮痛剤を飲んで、と言った。帰宅して職場に事情を話してとりあえず翌日までの休みをもらった。妻はあまりに包帯の巻き方がひどいのに驚いてきちんと巻き直してくれた。妻が巻き直してくれた包帯の方が断然まともだった。
入浴や飲酒は禁止されていたが、せっかくの臨時休みに風呂に入るな晩酌するな、という方が無理だ。

二日間休んで職場に出たが、腱鞘炎になって初めて両腕のある人間は、何をするにも両手を使っているんだなあ、と実感した。たぶんこの腱鞘炎は過酷なデスクワークが原因で、二泊徹夜しては帰宅、三泊徹夜しては帰宅と無茶な仕事をしていたが、結婚を妻のご両親に認めてもらう条件が「定職に就く」ことだったのでフリーのライター&レイアウト・デザイナーから一社嘱託になったのだが、仕事内容は同じでもかえって仕事量は過酷になってしまったのだ。当時は文章書きも製図も紙に筆記用具で書いていた。作業しているのは右手だが、左手は原稿用紙や製図用紙の端をグッと押さえているわけだ。定規で線を引くのでも、左手は定規と紙を二重に押さえているのだから、右手よりもよほど負荷のかかる作業をしていることになる。
ひげを剃る、衣類を着脱する、ドアを開け閉めするなど、基本的な生活行動すべてが利き腕だけではできない。本を開く、CDをケースに出し入れする、普段片手だけではしないことだ。
職場復帰の日、電車の吊り革も利き手で握ってしまうと何もできない。スポーツ選手が腱鞘炎で休養なんていうと笑っていて済まなかった。マジ痛いとはあれのことだ。障害のある人の大変さもわかった。また、この時の経験で、長女が左利きに育ってから自分も左利きで生活してみて、どんなことが左利きでは不便か、不便ではないか試してみる予習にもなった気がする。