Pulsar - Pollen (Kingdom, 1975)
Pulsar - Pollen (Kingdom, 1975) Full Album : https://youtu.be/uMwKxdXsBcM
Recorded at Diagram Studios, 42000 France.
Released in France, Kingdom KY28031, 1975
(Side A)
1. Pulsar - 3:00
2. Apaisement - 7:30
3. Puzzle/Omen - 8:00
(Side B)
1. Le Cheval De Syllogie - 7:00
2. Pollen - 13:05
All Composed and Arranged by Pulsar
All Lyrics by Philippe Roman except "Omen"
"Omen" Lyrics by Francois Artaud
[Personnel]
Victor Bosch - drums, percussion
Gilbert Gandil - guitars, vocals
Roland Richard - flute, strings
Jacques Roman - keyboards, synths
Philippe Roman - bass, vocals
Carmel Williams - voice (A3)
プログレッシヴ・ロック専門誌だった日本のマーキー誌86年8月号にピュルサーのドラマー、ヴィクトール・ボッスの現地インタヴューが掲載されている。インディーズ・クラスのバンドの来日公演が行われるようになったのは80年代末に渋谷ライヴ・インやクアトロなどの大型ライヴハウスが出来てからで、それまではメジャー・レーベルのミュージシャンの来日コンサートがホール規模の会場で行われるのが標準だったから、当時は来日できないミュージシャンのインタヴューは珍しかった。ボッスによるとピュルサーは60年代半ばから活動していたが(リズム&ブルースとサイケデリック・ロックをやっていたという)、レコード・デビューのきっかけはバンド・コンテストで、優秀バンド6組が選ばれる中に入選を果たした。その時の演奏曲目はオリジナル半分、あと半分はピンク・フロイドの『ユージン、斧に気をつけろ』と『原子心母』だったという。
英語版ウィキペディアによるとピュルサーはイギリスのレーベルと契約した初めてのフランスのロック・バンドで(ゴングやマグマはどうなるのだ、と思うが)、デビュー・アルバム『ポーレン』は1975年にフランスで発売され、翌76年にはイギリス盤とポルトガル盤も発売され、バンドはロジャー・チャップマン率いるファミリーの前座でイギリス・ツアーも行った。デビュー作の売り上げはフランス国内だけで3,500枚ほどだったという。ツアー前にベースとヴォーカル、作詞のフィリップ・ロマンが家庭の事情でバンドを脱退、バンドはしばらくベース抜きで活動したが、セカンド・アルバム『終着の浜辺』1976完成後にはミシェル・マッソンがベースに加わり、このアルバムはフランス国内で35,000枚を売り上げて、デビュー・アルバムも15,000枚の追加プレスを売り上げる。
ピュルサーがもっとも人気が高かったのはこの時期で、フランス国内では1位アンジュ、2位ピュルサー、3位アトールだった、とボッスがインタヴューで発言していたのもあながち誇張ではないらしく、イギリスのインディーズが本社ながらフランス本国で2枚のアルバムを合わせて50,000枚売った上に、海外盤も出ている。『終着の浜辺』は日本盤も78年に、当時人気絶頂の松本零士の描き下ろしイメージ・ポスター!(松本氏自身がノリノリで引き受けてくれたという)を付録にキング・レコードから発売された(当時のバンド名表記はパルサー)。確かに国際的にもフランス本国でもピュルサーはアトール以上の人気を博したと言える。アトールはフランス以外では意外にも日本でしかアルバムが発売されなかった。
だが日本では80年にアリオラ・レコードからアトールの『組曲「夢魔」』が発売されるとピュルサーの評価は下がってしまう。キングやアリオラはヨーロッパのレーベルとのパイプが太く、70年代末には英米ロックの主流は70年代半ばまでの潮流を切り捨てるような音楽になっていた。キングやアリオラは最新の英米ロックの流行が切り捨ててしまったようなバンドをヨーロッパから丁寧に紹介していて、『組曲「夢魔」』は大ヒット作になった。同年フランスからはエルドンの『スタンド・バイ』も日本発売されたが、エルドンはあまりに突然変異的で再評価は90年代になる。アトールは89年に過去の作品のCD化の好評からキング・レコードの原盤制作で一時的復活作を出し、来日公演も果たしている。ピュルサーには特別に日本ならではのサポートはなかった。
(Pulsar, Line up 1975)
現在までのピュルサーの全アルバムは以下の通り。邦題を記したものは日本盤も発売されている。
1975:『ポーレン』Pollen (Kingdom Records)
1976:『終着の浜辺』The Strands of the Future (Kingdom Records)
1977:『ハロウィーン』Halloween (CBS Records)
1981:『歓迎』Bienvenue au Conseil d'Administration (Theatre De La Satire)
1989: Gorlitz (Musea Records)
2007: Memory Ashes (Cypress Music)
40年間で6枚しか残していない。ジルベール・ギャンディ(ギター、ヴォーカル)、ジャック・ロマン(キーボード)、ロラン・リシャール(フルート、サックス、キーボード)、フィリップ・ロマン(ベース、ヴォーカル)、ヴィクトール・ボッス(ドラムス)のうちフィリップ・ロマンだけがデビュー作だけで脱退し、ライヴでは1975年~1980年はミシェル・マッソン、81年以降現在までルイ・パラリスがベーシストとして加わるが、レコーディングはフィリップ・ロマンを除くオリジナル・メンバーのままアルバム制作している(ギャンディがベース兼任)。
ピュルサーは初期2枚の成功でメジャーのCBSから勧誘され、インディーズのキングダムに限界を感じていたバンドはCBSへの移籍に踏み切る。『ポーレン』と『終着の浜辺』もCBSから再発され、移籍第1作『ハロウィーン』はAB面で組曲形式の全1曲の傑作になったが、キングダムはインディーズなりに全力でプロモートしてくれていたのにCBSではおざなりなプロモートしかされず、18,000枚のセールスにとどまってCBSとの契約も単発で終わってしまう。ファースト・アルバムの発売以来ポルトガルでは人気が高かったので『ハロウィーン』発表後には1万人規模の会場で2日連続コンサートも成功させたが、フランス国内でのコンサートはパリ以外の地方公演が10回程度組まれただけだった。ベーシストのマッソンがバンドを去り、20代終わりにさしかかっていたメンバーたちも次々就職せざるを得なかったのが79年~80年頃だったが、演劇用音楽の依頼が舞い込んできて、フランス文化庁からの援助金で非商業用プレスで第4作の演劇用音楽『歓迎』を制作する。
フランスで埋もれた70年代ロックの再発売と、メジャーでは商業ベースに乗らない国内のヴェテラン・バンド、新人バンドの新作制作を目的としたムゼア・レコーズが設立されたのが1987年だが、ムゼアはレーベル発足のオムニバス・アルバムにピュルサーの新曲を収録、それまでの全4作の版権も取得して再発売し、89年には本格的なアルバムとしては『ハロウィーン』以来となる『Gorlitz(ケルリッツ)』が発表された。音色やリズムが多少モダン化したものの、『ポーレン』からほとんど変わらないピュルサーの作風は、以前からのリスナーを納得させ、感慨深い気分にさせたものだった。『ハロウィーン』の商業的不振でプロのバンドではなくなってしまったピュルサーだが、『ハロウィーン』から10年あまりを経た『ケルリッツ』でも、さらに『ケルリッツ』から18年を経た『メモリー・アッシェズ』でも、『ポーレン』のみずみずしさは保ち続けているのだ。
この『ポーレン』はこれ1作で抜けるフィリップ・ロマンがヴォーカルをとって作詞を手がけているため、セカンド以降のピュルサーとは少し違った湿っぽさもあるが、フィリップ・ロマンが脱退しなくてもセカンド以降の音楽的変遷はあまり変わらなかっただろう。アトールのような英米ロック的でハード・ロック的な爽快感よりも、テクニックの面ではやや稚拙さすら感じさせるピュルサーの抒情性には説得力がある。40年間(学生バンド時代を入れると50年間)プロ時代もアマチュア時代もメンバー・チェンジなし、というバンドならではの温かみを感じる。『メモリー・アッシェズ』発表翌年の2008年にアメリカの音楽誌ゴールドマイン・マガジンはプログレッシヴ・ロックのベスト・アルバム25選に『ハロウィーン』を選んでいる。ちなみに英語版ウィキペディア(また、ヨーロッパ各国語ウィキペディア)にはピュルサーは載っているが、アトールは載っていない。アトールも載せてもいいと思うが。