人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

蜜猟奇譚・夜ノアンパンマン(47)

 いや、一応ここでは一夜のうちにアンパンマンが乳頭に変わってしまった、という前提で話を進めているわけですが、パン工場の誰もがそれを確認し、確信できたわけではないのです。あるのはアンパンマンの寝室に、今朝はアンパンマンの姿はなく、巨大な乳頭がベッドから転がり落ちたような位置の床に転がっていた、ということだけでした。これは物的証拠をなさないのはもちろん、状況証拠にすらなるとは言えません。ひょっとしたら事態はアンパンマンの自作自演、つまり正義の味方であることに疲れたアンパンマン本人が自分の身替わりに乳頭を置いてどこかへ逃亡しただけなのかもしれません。パン工場の人たちにはそう疑うだけの資格がありました。ともに世界の平和と幸福を支える仲間たちでもありますし、その上アンパンマンだけには特殊な規則が定められていました。パン工場の他の人たちには許されているのですが、アンパンマンだけには許されていないこと。それは一切の飲食の禁止です。
 パン工場の人たちは食糧供給を通して平和と幸福を維持する活動を行っているわけです。これは一種の福祉理論であり、例えばリベタリアニズムの立場からは、行きすぎた社会主義として社会と個人の能力の発達を阻害するもの、と糾弾されかねないほど危険でラジカルなものでした。餓えのない社会の実現がもし達成されると、資本主義社会の競争原理そのものが崩壊する、というわけです。しかしパン工場の人たちのモットーは「餓えている人びとにパンを配って何が悪い」と単純明快なものでしたので、考え通りの福祉活動を行っていたのです。「そんなパンなどカビさせてやる!」というのがばいきんまんの存在ですが、古いパンにはカビが生えるのも自然の摂理であり、ぼくらはみんな生きている、生きているからカビるんだ、ならば、ばいきんまんとは戦いこそすれ共棲もしていかなければなりません。
 そしてパン工場の人たちも他人のためだけでなく自分のための食事をきちんととっていました。ですがアンパンマンだけは、餓えている人たちに食べ物や飲み物を与えても、自分自身は決して飲食しない定めだったのです。
 それはアンパンマンが自分を最後の一片まで他人のための食糧そのものとしていた信念のためで、その代わりパン工場の人たちには普通の食生活が許されていました。アンパンマンの身はパンで、血液は餡でした。もっともこれは象徴的な意味になりますが。