人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2月16日~20日/ウィリアム・ワイラー(1902-1981)監督作品

 ベティ・デイヴィス主演の『黒蘭の女』'38からのつながりで今回はウィリアム・ワイラー監督作品を5本、堪能いたしました。ワイラーというとオードリー・ヘップバーン主演の例のやつ('53作品)は今上陛下ご夫妻の最愛の映画と、皇太子時代に皇居に映画談議に召された淀川長治氏にお語りになられたそうで、海外旅行などブルジョワの浪費と考える筆者にはあれは苦手な観光映画ですが、本物の王子・王女ご夫妻がお好きというのは尋常ならざるご意見です。とはいえあれは月光仮面のようなもので、あの作品があるがためどこの誰かは知らないけれど誰もがみんな知っている、ワイラーはそんな映画監督になっています。しかし本当にそれだけか。手がける作品のほとんどをヒット作にしながら多彩な題材、強靭な演出の手腕はワイラーを新しいグリフィスでもなければデミルの後継者でもなく、フォードやホークスの後輩でもなく、ヒッチコックと並ぶ技巧の革新者であり、かつまた、まったく情感において硬質冷静である点でメジャー映画では限界までドライな稀有な監督でもあります。サイレント時代からフランスの映画批評の影響が強い日本では、フランスの批評家がほとんど評価の俎上に乗せないワイラーは上記のアメリカ監督たちより固有の作家性を認められないできました。しかしワイラーに固有の作家性がないのなら、娯楽映画のほとんどすべてのジャンルで傑作を残してきた業績に確実にある一貫性の説明がつきません。ワイラーは現代劇映画のスタンダードを作った監督のひとりですが、それがかえってワイラーを全体像の見えない孤高の存在にしています。『ローマの休日』と『コレクター』のどちらも手がけた監督とはいったいどういう存在でしょうか。トリュフォーヒッチコックだけではなくワイラーからも『映画術』を取材すべきでした。もっともワイラーは若手フランス人監督など鼻もひっかけなかったかもしれませんが。

2月16日(木)
『砂漠の生霊』(アメリカ'29)*68mins, B/W
・先にジョン・フォードが映画化した『恵みの光』'19(フィルム現存せず)リメイクで、本作の後にさらにフォードがリメイクしたのがジョン・ウェイン主演の名作『三人の名付親』'48。西部の町で3人の銀行強盗が未開の乾沼地帯に逃走するが、馬も御者も行方不明の馬車に臨月の妊婦を発見する。出産した妊婦は3人に赤ん坊の世話を懇願して死ぬ。水も食糧も補充できない乾沼地帯で赤ん坊を守りながら死への逃避行が始まる。フォード版の情感豊かな雰囲気に対して、無名キャストで徹底したリアリズムで描かれる本作は悲愴きわまりない。長さからも2本立て興行用低予算作品と思われるが、乾沼地帯(砂漠)を果てしない密室に見立てて緊密なドラマにし、現実音以外の音楽を排除した演出の徹底性が凄まじい。フォード版とはシナリオ段階で細部がかなり異なるが、ワイラー版のシナリオでは主人公たちは『三人の名付親』よりずっと過酷な運命を辿るもので、名作のフォード版があっても本作には独自の価値がある。クリスマスの大合唱の中で迎えるクライマックスの壮絶さと無惨だがこれしかないハッピーエンドは鮮烈さではフォード版を凌ぐ。大鉈で斬ったように何の余韻も残さずザクッと終わるラスト・カットは後のヒッチコック作品くらいしか類例を見ない。ワイラーの出世作になったというのもうなづける会心作で、トーキー2年目の'29年でサイレントからの転換にアメリカ映画全体の質が低下(低迷期は'32年頃まで続く)した中、このトーキー技法の完成度は驚異的。以後ワイラーは技術的にも題材の選択も常に時代の数年先を行く鋭い映像感覚の監督になる。そこが生涯20年代に到達した作風の再生産に留まった先駆者デミルとは違う。仮に本作に尺の制限がなければ100分前後の作品になり、さらに脚色すれば『三人の名付親』に近くなるのが順当だと思うが、70分を切ればこその脇刺のような体当たりの切れ味こそが本作を成功させた。ハートウォームなフォード作品と両方観ると、本作の後半~ラストに至る酷薄さにはハードボイルドな非情さ、虚無感すら漂う。本当は西部劇なのだが感覚は完全に現代劇の犯罪サスペンスになっているのも勝負師さながらの度胸を感じる。世評通り20代ワイラーの金字塔。

2月17日(金)
『孔雀夫人』(アメリカ'36)*101mins, B/W
アカデミー賞7部門ノミネート、美術部門受賞。アメリカ初のノーベル文学賞作家(1930年)シンクレア・ルイス『Dodsworth』1929が原作。ルイス原作ではジョン・フォードの『人類の戦士』(『アロースミス』)、リチャード・ブルックスの『エルマー・ガントリー』も有名ながら、文学的評価は生前から批評家には大衆的流行作家と目され高くなかったので没後には原作は読まれなくなって(某大手映画サイトの作品紹介には「女流作家シンクレア・ルイス原作」と大嘘が書いてある)映画が残った。引退した大富豪の元実業家ドッズワース(ウォルター・ヒューストン)が妻(ルース・チャタートン)とヨーロッパ旅行に出る。実業家はヨーロッパ諸国の近代設備や伝統美術に感心するが妻はファッションと社交界にしか興味を持たず、行く先々で色男のナンパにひっかかる。ドッズワースは妻に寛容であろうとするが、最後には離婚と旅行中知り合ったアメリカ出身でヨーロッパ暮らしの長く知的で洗練された未亡人(メアリー・アスター)との再婚を選ぶ。これはルイス代表作5部作に数えられ、『本町通り』『バビット』『アロースミス』『エルマー・ガントリー』は翻訳があり『Dodsworth』だけ未訳だが、シンクレア・ルイス評伝によるとこれはルイス自身の自伝的内容になるらしい。本作はワイラーには珍しいロード・ムーヴィー(笑)なので得意の大広間の演出(前回の『黒蘭の女』の感想文参照)の出番は少ないが、ワイラーにある唯一デミル譲りの多彩な最新女性ファッションがこれでもかと炸裂する。演出以前にキャスティングでもう成功確実というくらいヒューストン、チャタートン、アスターの配役がばっちりキャラクターにはまっており、チャタートンも軽薄尻軽浮気症女というだけではなくひっかかるのも捨てられるのもチョロい女の哀愁を漂わせており、たぶんルイスの原作以上に複雑なニュアンスの性格造型がどのキャラクターにも及んでいる。どこでも贅沢好みの妻とイタリアの田舎の海辺で質素に暮らす未亡人の対比も映像の説得力あらばこそで、まともな中年男ならチャタートンと別れアスターを選んで当然の納得のいく展開になっている。たぶん英語ネイティヴの人にはなおさらチャタートン演じる無教養な妻と、教養と慎みのある未亡人の対比が言葉づかいでも伝わるようになっている(と思われる)。30年代アメリカ映画の名作でも筆頭に上げられるばかりか現在でも評価が下がらないのはアメリカ文化とヨーロッパ文化の対照性やアメリカ人のヨーロッパ文化への憧憬が今日でも変わらず、文学ではルイスより優れた作家が同様のテーマを描いたが映画では『孔雀夫人』(うまい邦題!)が抜きん出ていたからだろう。ワイラーにとっても、本作のヨーロッパ諸国はすべてセットだろうが、ヨーロッパを舞台に映画にする雛型になった作品だと思う。

2月18日(土)
西部の男』(アメリカ'40)*100mins, B/W
・本作までにはワイラーはほとんど毎年アカデミー賞男になっていた。本作の原題は『The Westerner』、流れ者のゲーリー・クーパーと実在人物だったという町を牛耳る悪徳判事ロイ・ビーン(ウォルター・ブレナン)の対決を正面切った西部劇タッチで描いている。アカデミー賞助演男優賞を受賞したブレナンのとぼけた大悪党ぶりと、判事に弾圧される農民に懇願されながら判事の側についたと見せて丁々発止のかけひきで最後の対決にまで持ち込む流れ者は黒澤明の『用心棒』に流れ込む西部劇の類型的パターンのひとつだが、これは本来ギャング映画の発想であって西部劇でやったのは本作は早い例ではないか。またワイラーの場合演出の巧さは舞台の限定にも現れる。本作の場合、クライマックスで特別な舞台が決闘の場になる他は、(A)判事が法廷兼溜まり場にしている酒場、(A')処刑場に使われる酒場の前の公道兼広場、(B)農地を見下ろす農民たちの住む丘、の3か所にほぼ限定される(挿入カットは除く)。(A)と(A')は悪党たちの場所で、(A')に農民たちが現れるのは処刑シーンか抗議行動に決起した時に限り、(B)は唯一農民たちだけの場所だがここからは農地が判事の手下に荒らされるのが見え、さらに手下たちに家まで焼き討ちにあう場所でもある。この3か所を誰の命令でもなく何をするでもなく自由に動けるのはクーパー演じる流れ者だけ、という設定になっている。ドラマはクーパーの行動を追って(A)(A')(B)を自在に移動していく。判事一味と農民たちが(A)→(B)、(A)←(B)と移動するのは具体的な敵対行為の場合に限るので、日常的に(A)と(B)を包括する場面は本作の中には現れない。それが物語の緊張感を維持する効果を生む。また舞台分割は演劇的手法の映画的展開だが、映画を観ている間は演劇的とはまるで感じないくらいにこなれている。つまり映画的再構築がうまい。また本作は劇中に登場しない人物が流れ者と判事のかけひきの鍵を握る、というにくい仕掛けがあり、話題だけに上るその人物がいったい登場するのかしないままか、本当は実在すらしない人物ではないかと物語をひっぱる話術トリックにもなっている。つまり『西部の男』には物語の客観的真実を知る万能人物もおらず、特定の視点人物もいない。ウェルズの『市民ケーン』は翌41年だがあれは作中人物の認識の限界を描きこそすれ作者が万能の視点になっていた。思えば『嵐が丘』'39や『黒蘭の女』'38、『孔雀夫人』どころか『砂漠の生霊』でさえワイラー映画には超越的な作中視点人物も、字幕やナレーションで解説されるような万能的視点も排除されている。つまり映像と音声で示された限定された情報だけで理解し、物語を追わなければならない。サルトルが画期的な文学論「フランソワ・モーリアック氏と自由」で作者が万能の神の視点から描くなら作中人物は傀儡でしかなく、そんな創作が芸術と言えるだろうかと指摘したのは'39年だから、サルトルとは関係なくワイラーも同じ認識に達していたのがわかる。フォードやホークスと違い(特にホークスは視点人物を遵守する)、ヒッチコックと共通するのはワイラー映画は多彩なジャンルに渡るようでいて構造的には話術によるサスペンス映画で一貫している点になる。フォードやホークスは視点人物の移動がサスペンスを生む映画であり、サスペンスの質が異なる。正統的演出家に見えて実はワイラーは相当な癖者であり、客観的真実の排除を原点とする映画とすればこの手法はアントニオーニより20年早い。ワイラー=スリラー映画作家説は、筆者のようなポンコツではなくまともな研究者が取り組むべき課題ではないか。

2月19日(日)
『女相続人』(アメリカ'49)*115mins, B/W
・この頃になるとワイラーはプロデュースも兼ねる監督になる。企画やキャスティング、スタッフ決定権すべてを掌握できるわけで、一歩間違えると独裁的な映画作りに陥って失敗しかねないがそこはワイラー、得意の文学原作もので勝負した。シンクレア・ルイスと違って本物の大作家、19世紀のヘンリー・ジェイムズの『Washington Square』1880が原作。ジェイムズ作品中でも比較的初期の目立たない佳作に目をつけたのが渋い。主演はオリヴィア・デ・ハヴィランドアカデミー賞8部門ノミネート、主演女優賞含め3部門受賞。前回取り上げたベティ・デイヴィス主演作『情熱の航海』をさらに息苦しくしたような設定で、『情熱~』は母子関係だったが本作は専制的な父親と気弱なオールドミスの娘の話。ハヴィランドは初めての舞踏会で求婚者(モンゴメリー・クリフト)ができるが、父親(ラルフ・リチャードソン)は「どうせ金目当てだ。相続権以外お前に何の価値がある!?」と猛反対し、クリフトは西部の開拓事業に旅立ってしまう。娘は父親の臨終すら看取らない氷のような性格に激変する。数年後大した成果もなくクリフトは戻ってきて再びハヴィランドに求婚するが、ハヴィランドはもうクリフトを遺産目当ての男としか思っていない。これは大広間の構造を利用した演出がたっぷりある作品で、おぼこ娘のハヴィランドが恋愛に夢中の社交性のある女性になり、父の衝撃発言で完全に心を閉ざした冷酷なオールドミスになるなりきり演技がすごい。クリフト演じる恋人の真意もひと言では割り切れない信用しきれないキャラクターだし、エンディングなんかあっけにとられているうちに突然のエンドマークで終わってしまう。ジェイムズの古典に託してワイラーのダークサイドが爆発した名作で、娯楽的ロマンス映画のお約束をことごとく裏切っている作りには並々ならぬ怨念を感じる。ワイラーが本当に作りたかったディスコミュニケーション映画、反ラヴロマンス映画として完璧の完成度を誇り、観客の肝を凍りつかせる迫力がある。エロール・フリン主演の楽しい活劇映画の常連ヒロインが普段のハヴィランドだが、本気を出すとここまで凄い。婚活を応援する人の好い叔母さん役のミリアム・ホプキンス、リチャードソンのガンコ親父ぶり、クリフトも情けない男を好演。これはワイラーも本音でないと作れない壮絶な作品で、それが同時代に正当に評価されたのもすごい。前作が『我等の生涯の最良の年』'46、初プロデュース作の本作から『探偵物語』'51、『黄昏』'51で、『ローマの休日』'53、『必死の逃亡者』'55、『友情ある説得』'56、『大いなる西部』'58までプロデュースを兼ねる作品が続き、『ベン・ハー』'59は会社企画だが次の『噂の二人』'61も自己プロデュース作になる。この時期のワイラーの充実ぶりがわかる。

2月20日(月)
『黄昏』(アメリカ'51)*122mins, B/W
・『探偵物語』をはさんで再び名作文学もの。ジェイムズとルイスの中間に当たる世代のセオドア・ドライサー原作で、代表作『アメリカの悲劇』1925は映画『陽のあたる場所』にもなっている。ノーベル文学賞もドライサーが第一候補だったが労働運動を支援する発言が共産主義的とされてルイスがくり上げ受賞した。原題『Carrie』の本作は処女作『Sister Carrie』1900の映画化。田舎の実家からシカゴの姉夫婦を頼って上京してきたキャリー(ジェニファー・ジョーンズ)はなかなか良い職につけず、汽車で知りあっていた芸人にナンパされて愛人になる。姉夫婦が下宿代を要求してくるのも実にアメリカらしい。キャリーは容姿を買われ高級レストランのウェイトレスになるが、強欲な妻(ミリアム・ホプキンス)との仲の冷え切った支配人ハーストウッド(ローレンス・オリヴィエ)とできてしまう。ハーストウッドはレストランの金を盗んでキャリーとニューヨークに駆け落ちするが、妻帯者であることも盗んだ金なのも(ハーストウッド家の現金・資産はすべて名家の家系の夫人が握っている)キャリーには隠している。だがすぐに探偵に居場所を知られて持ち金をゆすり盗られ、働こうにもどこにもシカゴからの窃盗逃亡者との情報が回っていてキャリーの内職で貧しく暮らすが、妊娠が判明したのもつかの間弁護士を連れたハーストウッド夫人登場、即刻別れるか重婚罪で起訴するか迫られる。夫人が出ていってすぐショックから転倒し流産してしまう。キャリーがエキストラ女優として働きに出る一方ハーストウッドはついに家出してホームレスになる。2年後。舞台女優として大成功したキャリーは偶然元の愛人の芸人に出会い、ハーストウッド自身はまったく資産を持たず駆け落ちのために横領してお尋ね者の身であることを知り、キャリーのためにすべてを犠牲にしたことを悟る。ハーストウッドは夜は救世軍の宿泊所、昼は放浪して暮らしている。キャリーはハーストウッドの居場所を突き止め楽屋に招いてお金を渡し、今夜の出し物の後は家に来てまた一緒に住もうと申し出る。キャリーの出番がきて楽屋で一人になったハーストウッドは、ふとガス栓を開けるが締めて、渡された財布から銅貨1枚だけを取って楽屋から去っていく。ストーリーは原作小説に非常に忠実だがオリヴィエ演じる中年男の凋落にウェイトを置いた脚色で、ヒロインが都会で揉まれてしたたかな女になっていく過程に主眼を置いた原作とはややニュアンスが異なり、原作ではヒロインは女優として成功した一方内面の空虚に気づき、中年男はヒロインと再会しないまま安宿でガス自殺する結末になっているが、映画で原作通りにするとヒロインと中年男のドラマはばらばらに描かれることになるので、ヒロインの愛の渇きと中年男の死の暗示はこの脚色でも十分表現されている。オリヴィエのうまさはここでもさすがで、ホームレスになってもボロボロのスーツを着てよれよれのネクタイを締める姿はリアリズムで描かれたチャップリンのようでもある。ジェニファー・ジョーンズは作品によってかなり微妙な女優だが、19世紀末のファッションでB/W映像だと作りの派手な顔立ちや大味な演技がうまくはまっている。 『孔雀夫人』『黒蘭の女』や『嵐が丘』で試行され、『女相続人』で完成したディスコミュニケーション映画、反メロドラマへの指向が『女相続人』ではあからさまに出過ぎた感もあったが、本作はふさわしい素材を得て自然な仕上がりを見せた。ヒロインが決して悪女ではなく、登場人物の性格設定とドラマ展開に無理がないのは原作の功徳もあるが、映画化して首尾一貫した作品になるとは限らない。ワイラー技巧家と強調されがちだが、技巧を隠すべき所は隠す巧みさが本作の重みを増している。