人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記3月11日~15日/ジャン・コクトーとジャン=ピエール・メルヴィル

 フランスの20世紀前半のモダニズム文学(エスプリ・ヌーヴォー)を代表するマルチ文学者(詩人、劇作家、小説家、エッセイスト、イラストレーター)のジャン・コクトー(1889-1963)と第二次大戦後フランス映画の新人中でも硬派中の硬派監督ジャン=ピエール・メルヴィル(1917-1973)は親子ほど離れた世代ですが、メルヴィルの第1作『海の沈黙』に感銘を受けたコクトーが小説の代表作『恐るべき子供たち』の映画化権をメルヴィルに託し、新たに書き下ろしたシナリオを提供したつながりでよく知られています。50年代末デビューのヌーヴェル・ヴァーグ映画作家たちは古い世代のフランス映画の大半に反発しましたが、コクトーメルヴィルヌーヴェル・ヴァーグ世代の監督たちにも先達として敬愛を集めていました。ヌーヴェル・ヴァーグ運動による映画史の再検討は映画批評の基準を一新させて今なお強い影響力があり、10代後半~20代の青年時代にコクトーメルヴィルの映画を観て受けた感動は忘れられません。それからおおよそ30年あまりが過ぎ、観直してみた感想が今回の作文です。

3月11日(土)
ジャン・コクトー『詩人の血』(フランス'30)*51mins, B/W
コクトーシュールレアリスムと敵対関係にあった人だが、映画第1作の本作では前年の代表的シュールレアリスム映画『アンダルシアの犬』(ルイス・ブニュエル)に瓜二つと言えるほど似ている。映画は青年と絵画と生きている彫像のパーツが次々と入れ替わっていく、というのがだいたい4部ないし3部構成で描かれていくが、『アンダルシア~』と違うのは下品な映像の回避と悪意・攻撃性の希薄さくらいで、イメージの転位という手法は大差ない。エスプリ・ヌーヴォーとシュールレアリスムではアヴァンギャルドの手法ではそれほど違いはなく、エスプリ・ヌーヴォーになくシュールレアリスムにあったのは激しい現実否定だったことが両者を較べるとわかる。本作自体はコクトーの発想のエッセンスを次々並べたもので、絵画、彫像、鏡、死、両性具有的セミヌードなど20年後の名作『オルフェ』'50に結実する覚え書きみたいなもの。玄人はだしの本格的映画作家になった『オルフェ』を先に観ていないととりとめのなさにただのアマチュア映画に見えるが、映画製作カムバック後の『美女と野獣』'46、『オルフェ』を観ていれば大学の卒業製作みたいなムードで楽しめる。これがなかったら『美女と野獣』『オルフェ』はコクトーが名義だけ貸した単なるプロデュース作品の疑惑が起こったかもしれない。後のコクトー映画のエスキスとして観るのがいいのだろう。

3月12日(日)
ジャン・コクトー『双頭の鷲』(フランス'48)*87mins, B/W
・先に劇作として公表を博して舞台版と同じキャストで製作された。『美女と野獣』『オルフェ』の中間に当たる年度の作品で、架空の小王国の女王が崩御したばかりの国王に生き写しの三文詩人(ジャン・マレー。女王暗殺のために組織の命令で潜入したアナーキスト)を逮捕・監禁しているうちに相思相愛になってしまうが、王室的・政治的使命(実は傀儡政権王国で、政府は女王の暗殺をむしろ歓迎している)や女(しかも女王)のプライドが純朴だけれど間抜け、美青年だけど間抜けな三文詩人の愛を素直に受け入れられない。すったもんだの挙げ句にとんでもない無茶苦茶な結末が唐突に訪れてあ然としてしまうが、見せ場のための結末か(映画版『恐るべき子供たち』では明らかに見せ場のための改作)、物語の合理的帰結かよくわからないくらい飛躍していて賛否が分かれそう。前後作『美女と野獣』『オルフェ』にはそうした破綻はないから本作の無茶は意図的な結末だと思う。面白いがやはり『美女と野獣』『オルフェ』を先に観てからこその作品だろう。あまりに見せ場が突出しているのは、舞台劇を忠実に映画化しすぎたからかもしれない。

3月13日(月)
ジャン=ピエール・メルヴィル『海の沈黙』(フランス'49)*86mins, B/W
・原作小説は第二次世界大戦真っ只中の'42年に秘密出版され熱狂的に回覧されたもの(岩波文庫)。ドイツ軍占領下のフランスの寒村。姪と二人暮らしの隠居学者の家にドイツ軍青年将校が居候することになる。青年将校は作曲家のインテリで、父親からフランス文化の素晴らしさを学んで育ち、この戦争でフランス文化とドイツ文化が長年の桎梏を超えて対等で理想的な融合を果たすのです、と毎晩少しずつ熱く語る。隠居学者と姪は無言を貫く、という静かで非情な抵抗を続ける。だがついに……、とハード極まりない、戦場を描かない戦争抵抗映画。メルヴィル自身のインディー映画で、回想シーンを除いて舞台は暖炉のある居間、登場人物は老人と姪と青年将校の3人のみというストイックな作品で、2010年に日本ではようやく一般劇場公開された。それまではまれに英語字幕版で非営利団体上映されるのを観るしかなかったので、観られただけでも感激したものだった。今日本語字幕つきのDVDで観てみるとあんまり重みが伝わってこない。青年将校の饒舌に戯画化すら感じる。たぶん日本語字幕で観るよりもっと一生懸命にたどたどしく、英語字幕でもどかしく観る方が本来のニュアンスに近いのかもしれないし、DVDソフトでいつでも観られるより一期一会の覚悟で観るべき映画なのだと思う。もちろん志はすごく高い。ものは試しでも一度は観ておきたい映画ではある。

3月14日(火)
ジャン=ピエール・メルヴィル恐るべき子供たち』(フランス'50)*106mins, B/W
・原作小説は'29年刊、長編エッセイ『阿片』'30の通り薬物問題を抱えていた時期に3週間足らずで一気に書かれたコクトーの小説代表作で、絶頂期の萩尾望都による見事な傑作コミカライズ('79年)もある。コクトー自身の指名だけあり、原作小説とはかなり改変されたシナリオだけあって見応え十分だが、少年少女の純情と悪意、浮かされたような愛と嫉妬と残酷は萩尾望都のコミカライズの方が的確に描いているのではないか。コミカライズは原作小説に忠実でもあり、映画化で改変された部分も原作小説の方が勝っていると思う。映画的見せ場を意識してバイセクシュアルなメンタリティの弟、弟への近親相姦的な独占的愛情で弟に近づく人物を排除していく姉、という無言のドラマに余計な贅肉をつけてしまった。これはこれで見事で、原作小説(またはコミカライズ)を知らずに映画から入ったら見せ場もコクトー/メルヴィルの意図通り堪能できるはずだが、なまじ出来の良い小説(しかも淡々とした小説)が原作なだけにこんな場面はなかったぞ、と展開にまで違和感を感じてしまう。いっそ人物設定だけ残してまったく新しいオリジナル・シナリオにすべきだった。その点ではコクトーに責があるし、コクトー本人のナレーションは自分の映画でだけやってほしい。結末の唐突さ(原作から改変)は『双頭の鷲』に似すぎている。メルヴィル映画をコクトーが乗っ取って、原作・シナリオの領分を踏み越えすぎた作品。メルヴィルとしては口を出しすぎてくる大御所コクトーを跳ね除けられなかった、というところか。

3月15日(水)
ジャン=ピエール・メルヴィル影の軍隊』(フランス'69)*139mins, Eastmancolor
メルヴィル作品は『海の沈黙』'48から遺作『リスボン特急』'72まで24年間で13本。フランスのメジャーな商業映画監督としてはロベール・ブレッソンと並ぶ寡作家といえる。本作は第11作で、第二次世界大戦レジスタンス運動に携わったメルヴィルが『海の沈黙』以来レジスタンス運動を描いてみせた原点回帰的題材だが、『恐るべき子供たち』や『モラン神父』などの文芸映画、『マンハッタンの二人の男』『いぬ』『サムライ』などの犯罪映画を撮ってきたキャリアからかレジスタンス組織の内部粛清を描いてギャング映画に近い。粛清といっても内ゲバではなく、密告者やゲシュタポにマークされた同士は情報漏洩前に抹殺しなければならない、という陰惨極まりない話で、暗殺に次ぐ暗殺、しかも昨日までの同士を殺害するのだからやりきれない。リノ・ヴェンチュラ演じる主人公、シモーヌ・シニョレ演じる初老の婦人闘士の存在感が鮮烈。エンドロールで語られる登場人物全員の末路がずっしり重い。一方メルヴィル晩年の3作(本作、『仁義』、『リスボン特急』)で目立つ粗もあり、プロペラ機からパラシュート投下するシーンはプラモデルにしか見えない飛行機の外観もひどいが機内もまったく機内に見えないし、映画冒頭の夜景なんか雑でフィルム状態かオプティカル・エラーとしか思えないほど汚い。また内容もレジスタンス運動の暗黒面ばかりを描いていて重苦しいが、機密防衛のための粛清が正当化されるなら政治至上主義に陥るしかないし、何の葛藤もないのは不自然かよほどの異常性を感じる。青年時代に観た時には厳しさに圧倒されたが今観ると看過できない欠点があまりに多く、昔は惚れた映画だけに惜しいところで集大成的最高傑作になりそこなった晩年の大作と無念に思える。