北村透谷(門太郎)・明治元年(1868年)12月29日生~明治27年(1894年)5月16日逝去(縊死自殺、享年25歳)。明治26年=1893年夏(24歳)、前年6月生の長女・英子と。
『楚囚之詩』明治22年(1889年)4月9日・春洋堂刊。四六判横綴・自序2頁、本文24頁。
中西梅花(1866=慶応2年~1898=明治31年)『新體梅花詩集』明治24年(1891年)3月10日・博文館刊。四六判・序文22頁、目次4頁、本文104頁、跋2頁。(ダストジャケット・本体表紙)
前回までの「北村透谷『楚囚之詩』(補)」で中西梅花(1866-1898)の『新體梅花詩集』(明治24年=1891年)の主要な詩編(詩集全編の1/3程度)はご紹介いたしました。梅花の詩は透谷と較べると古臭さを感じずにはいられないものですし、最初は1、2編をご紹介して詩集の概略の解説に留めるつもりだったのです。おそらく今日の読者が予備知識なしに読んで楽しめるは長詩「出放題」くらいかと思われますし、「出放題」が詩集中出色の作品としても『新體梅花詩集』が多彩な作風の作品からなる詩集なのは前回までにご紹介した通りです。長短23編の詩編からなる『新體梅花詩集』はおおむね、
・(1)物語詩(叙事詩)
・(2)社交詩(機会詩)
・(3)思想詩(観念詩)
・(4)抒情詩(叙景詩・心情詩)
の4系統の作品を収めた詩集でした。これらは実作に当たればどれも今日では古臭く見える作品ばかりで透谷の『楚囚之詩』の屈折して鋭い文体とは対照的であり、透谷の作風が垂直的とすれば梅花の作風はあまりに水平的に見えます。それはイギリス詩に学んだ透谷と江戸徳川時代の戯文の脈を汲んだ梅花の嗜好の違いでもありますが、『楚囚之詩』『蓬莱曲』の透谷よりも梅花の詩がより伸びやかなのは否定できません。梅花と透谷はどちらも明治維新によって没落した士族の家系に生まれましたが、透谷がキリスト教文化をあまりにストイックに受け入れてしまったのもその一因でしょうし、徳川時代的な「粋」を遊びとして排除した生真面目さもあるでしょう。一方徳川時代にも文芸を通じて士族と町人が自由に交流していた例もあり、それこそは「粋」の世界では士族も町人も平等という意識からでした。逆に言えば士族と町人の交わることのできるのは「粋」の領域に留まるという点が徳川時代の保守性だったのです。梅花の詩は西洋詩からは自由詩の形式を参考にした程度のものでキリスト教文化とは無縁であり、その詩は徳川時代的「粋」を継ぐものでしたが、粋の精神そのものが西洋文化からの圧迫で急激に時代遅れとなり、それでも頑として粋であろうとすれば保守的だったはずのものが反逆的になり、屈折したものにならざるを得なかったのです。そこで梅花の詩にも透谷と異なったかたちで近代性が生まれました。
透谷の『楚囚之詩』を祖父の代までお侍だった詩人の作品と言って違和感を感じる読者はいないと思いますが、梅花の「出放題」には作者の出身を示すような要素はほとんどなく一人の詩人の個性が感じられるのみで、むしろ士族の出身という方が奇矯に感じられます。しかし士族とは時代劇のイメージの通俗的な「侍」とは異なり、民間人の町人と違うのは世襲制の公務員職だったということだけです。透谷の家系は役所勤めだったようですし梅花の家系は漢方医で、戦国時代のような合戦などなくなった鎌倉~徳川幕府の間に士族はいわゆる「侍」でもなんでもない公務員となり、それが職にあぶれると事実上町人と変わらない浪人になるわけです。透谷の詩にどうしても根の深い自尊心の強い壮語癖が見られ、梅花の詩には読者を見下すような所はなく諧謔に富んでいるのは認めないわけにはいきません。私立校で中退とはいえ今日の学制に置き換えれば大学進学まで教育を受けた透谷は実際英文学についてはエリートであり、一方梅花はまったく学歴が判明していませんから実家浅草の地元の私学(いわゆる寺子屋教育)に学んだ程度で、その教育内容は江戸時代と変わらないような和歌や漢詩文素読などだったでしょうから、透谷が進学した東京専門学校(現・早稲田大学)のように古典から最新までに至る西洋文化の思潮を梅花が学んだ機会があったとはまず考えられません。。
また『新體梅花詩集』が切り開いた現代詩の表現の多様性は可能性としてでも画期的なものでした。前回で引用した河井醉茗の明治詩の回想文によると、戦後に現代詩と呼ばれるようになった日本の自由詩型の詩が明治期に「新体詩」と呼ばれるようになったのは明治15年(1882年)に刊行された矢田部良吉・外山正一・井上哲次郎の合同訳詩・創作詩集『新体詩抄』以来のことでした。以下上げるのは明治の新体詩の里程標的詩集と専門詩人たちの第1詩集ですが、例外として『讃美歌』(明治7年・長崎メソジスト教会刊)、『小学唱歌集第一集~第三集』(文部省音楽取調係編纂・明治14年、明治16年、明治17年)、『幼稚園唱歌集』(文部省音楽取調係編纂・明治20年)、『明治唱歌集第一集~第四集』(大和田健樹、奥好義共編・中央堂・明治21年~明治22年)、『日本軍歌』(納所辯次郎編・博文館・明治25年)があり、日本語の詩として自然に人口に膾炙したのは文学として書かれた詩よりもこれら信仰教育や児童の音楽・情操教育、軍事教育のための実用詩だったのは皮肉なことでした。以下に上げる明治時代の詩集が今日どれほど読まれているでしょうか。
・明治15年(1882年) 矢田部良吉・外山正一・井上哲次郎『新体詩抄』(丸家善七・8月) 合同訳詩・創作詩集
・明治15年(1882年) 竹内節編『新体詩歌』(全5巻)(徴古堂/鶴声社・10月~明治16年6月/明治19年4月) 合同訳詩・創作詩集
・明治18年(1885年) 湯浅半月『十二の石塚』(私家本・10月) 長編歴史叙事詩
・明治19年(1886年) 落花居士『新体詩学必携』(有朋社・6月) 創作詩指南書
・明治19年(1886年) 山田武太郎(美妙)編『新体詞選』(香雲書屋・8月) 合同選詩集
・明治19年(1886年) 竹内隆信編『新体詩選』(春陽堂・9月) 合同選詩集
・明治19年(1886年) 山田美妙『新体詩華 少年姿』(香雲書房・10月) イラスト入りテーマ詩集
・明治20年(1887年) 植木枝盛『新体詩歌 自由詞林』(市原真影・10月) 合同訳詩・選詩集
・明治21年(1888年) 落合直文『孝女白菊の歌』(東洋学会雑誌・2月~明治22年5月) 長編歴史叙事詩
・明治22年(1889年) 北村透谷『楚囚之詩』(春詳堂・4月) 長編叙事詩
・明治22年(1889年) 森鴎外など訳『於母影』(国民の友・8月) 合同訳詩集
・明治23年(1890年) 宮崎湖処子『帰省』(民友社・6月) 詩文集
・明治24年(1891年) 中西梅花『新体梅花詩集』(博文館・3月) 第1詩集
・明治24年(1891年) 北村透谷『蓬莱曲』(養心堂・5月) 長編劇詩
・明治24年(1891年) 森鴎外『美奈和集』(春陽堂・7月) 詩文集
・明治24年(1891年) 山田美妙『新調韻文 青年唱歌集』(博文館・8月) テーマ詩集
・明治26年(1893年) 落合直文『騎馬旅行』(国語伝習所・6月) 長編叙事詩
・明治26年(1893年) 宮崎湖処子『湖処子詩集』(右文社・11月) 第1創作詩・訳詩集
・明治27年(1894年) 塩井雨江訳=ウォルター・スコット『今様長歌 湖上の女人』(開新堂書店・3月) 翻訳長編叙事詩
・明治28年(1895年) 外山正一他編『新体詩歌集』(大日本図書株式会社・9月) 合同訳詩・選詩集
・明治29年(1896年) 与謝野鉄幹『東西南北』(明治書院・7月) 第1詩・短歌集
・明治30年(1897年) 宮崎八百吉(湖処子)編『叙情詩』(民友社・2月) 書き下ろし合同詩集
・明治30年(1897年) 島崎藤村『若菜集』(春陽堂・8月) 第1詩集
・明治31年(1898年) 大月隆編『山高水長』(文学同志会・1月) 書き下ろし合同詩集
・明治32年(1899年) 土井晩翠『天地有情』(博文館・4月) 第1詩集
・明治32年(1899年) 薄田泣菫『暮笛集』(文淵堂・11月) 第1詩集
・明治32年(1899年) 横瀬夜雨『夕月』(旭堂書店・12月) 第1詩集
・明治34年(1901年) 河井醉茗『無弦弓』(内外出版協会・1月) 第1詩集
・明治34年(1901年) 岩野泡鳴『霜じも』(無天詩窟・7月) 第1詩集
・明治35年(1902年) 蒲原有明『草わかば』(新声社・1月) 第1詩集
・明治38年(1905年) 石川啄木『あこがれ』(小田島書房・5月) 第1詩集
・明治38年(1905年) 三木露風『夏姫』(血汐舎・7月) 第1詩集
・明治39年(1906年) 伊良子清白『孔雀船』(佐久良書房・5月) 第1詩集
以上の詩集刊行内容を見ると明治の自由詩は翻訳詩と創作詩の合同詩集から始まり、次第に翻訳詩を含まない創作詩の合同詩集に移り、『十二の石塚』(旧約聖書による)や『孝女白菊の歌』(西南戦争に材を採った漢詩を原作とする)などの長編歴史叙事詩やさまざまな美少年を詠んだ『新体詩華 少年姿』やアメリカ、スペイン、古代ローマの建国運動を詠んだ『新体詩歌 自由詞林』などのテーマ詩集が『楚囚之詩』に先立って発表されており、『楚囚之詩』は半ばバイロンの『シオンの囚人』の翻案ながらオリジナリティを主張できるものでしたが詩集というよりも連作長編叙事詩であり、何より著者によって発売が差し止められて未発表作品に終わったのです。本格的な個人詩集の時代は明治29年の与謝野鉄幹『東西南北』からとも言えますがこれも詩集と歌集を兼ねたもので、翌30年の島崎藤村『若菜集』こそが青年詩人たちの第1詩集の皮切りになりました。明治24年の『新体梅花詩集』と明治26年の『湖処子詩集』が例外的に先駆的な個人詩集だったのもリストからわかります。『若菜集』の半年前に刊行された宮崎八百吉(湖処子)編『叙情詩』(大月隆編『山高水長』はその続編)は藤村も属した「文学界」同人の合同詩集で国木田独歩、柳田国男、田山花袋らも作品を寄せ、何より「文学界」は透谷と藤村を中心にしたグループでした。明治20年代の詩人から山田美妙、宮崎湖処子を逸することはできませんが、美妙や湖処子の詩には透谷や梅花のような本質的な鋭さはないのです。そして梅花ほど感受性の広さ、題材の多様さ、表現の多彩さ、何より自由な精神で詩を書き、イデオロギーを持ち込まずに一貫した個性と詩の自律性を貫いた詩人は他にいなかったので、『蓬莱曲』でようやくデビュー(実際は再デビュー)した透谷が美妙や湖処子の詩の水準ではなく『新體梅花詩集』を意識した作品を書くようになったのも納得できることでした。歿年までの透谷の後期詩編は梅花より優れた才能が明らかなものでしたが、梅花という触媒なしに後期詩編の作風に向かったかはわかりません。ただし透谷が短詩に向かわず『楚囚之詩』~『蓬莱曲』の流れにある長編詩の詩人として創作を続けた可能性は『蓬莱曲』が未完の続編を併載して刊行されたことからも考えづらく、透谷の詩業は終わっていたかもしれないのです。今日では誰も読まない『新體梅花詩集』は透谷の陰にすっかり隠れたようでいて、これなしには透谷の全詩業もなければ『梅花詩集』にあって透谷詩集にはないものが確かにあります。その後の現代詩が梅花を切り捨てただけです。