人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年5月26日・27日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(6)

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 バッド・ベティカーの映画は『美女と闘牛士』'51以前の作品は日本では未公開で、それ以降の作品も半数は日本劇場未公開だったのですが、2010年代になって初期作品はDVD発売で初紹介され、2017年には『七人の無頼漢』からの「ラナウン・サイクル」7連作の日本盤DVD化がようやく実現しました。アメリカ本国でのDVD化は2008年に一斉にワーナー配給の『七人の無頼』『決斗ウエストバウンド』が単品、コロンビア配給の5作はボックスセットでいずれも廉価版発売されましたが、日本盤DVDは7作それぞれ単品しかも廉価とは言いがたい新作並みの価格の発売で、アメリカ本国のように再上映館やテレビ放映でちょくちょくベティカー西部劇が観られる具合にはいかない日本ではせっかくDVD化されてもよほどのマニアではないと手にしないのではないか、そうしたマニアはとっくに既発売のアメリカ盤DVDを持っているのではないかと思います。'53年以前の作品はパブリック・ドメイン化していますから廉価版発売もされていますが「ラナウン・サイクル」連作は'56年の『七人の無頼漢』から始まるので、ワーナーとコロンビア混成の全7作の一括ボックス化などもパブリック・ドメイン化の年限があと10年は進まないとかなわない。その頃には'50年代西部劇の、しかもB級映画規模予算の西部劇の愛好家などますますごく一部の映画マニアに限られている可能性も大きいので、再評価されたかに見えるベティカーも今が再評価の絶頂でまたしても観られず語る人もなく忘れ去られた監督になるのも十分にあり得ます。「ラナウン・サイクル」7連作は最初の2作『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』と最後の2作『決斗ウエストバウンド』『決闘コマンチ砦』が日本劇場公開され、第3作~第5作が日本劇場未公開で、今回の2作と次回のうち1作は日本ではかつてはテレビ放映され、映像ソフト発売でようやく正式紹介された作品です。映像ソフト発売以前にフィルム上映の機会も少なかったのであまり話題に上らない作品でもあり、また日本公開が見送られたのも何となく納得のいく、連作中ではカタルシスや爽快感の少ない凝った設定と展開に特徴があり、そこが連作でも代表作には上げづらい内容ながら見所にもなっています。連作全7作を観ると似通った作品ばかりに見えながらこれらは、実は連作にもかなりの幅があるのも改めて感じさせてくれる、連作中の異色作として異彩を放つ作品でもあります。

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●5月26日(日)
『ディシジョン・アット・サンダウン(日没の決断)』Decision at Sundown (プロデューサーズ&アクターズ・カンパニー=コロンビア'57.Nov.10)*77min, Technicolor, Widescreen : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売) : https://youtu.be/bCFdacwdJ50 (Full Movie) : https://youtu.be/fp2PqAaSYo0 (Trailer)

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 本作と次作『ブキャナン・ライズ・アローン(ブキャナン 馬に乗る)』、その次の『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』はのちテレビ放映、特殊上映はされてもアメリカ本国公開時に日本劇場公開されなかった作品で、代わりに『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』から連作最後の2作『決闘コマンチ砦』までが日本公開された時期にユニヴァーサル時代の'52年~'53年作品が『平原の待伏せ』『シマロン・キッド』『征服されざる西部』『最後の酋長』の順でいずれも'58年作品として日本公開されたのが記録に残っています。監督なり主演俳優なりが共通する外国映画が製作順に日本公開されるとは限らず、むしろ注目作が公開されたのをきっかけに旧作・新作が平行または交互に公開されるようになるのはよくあることですが、7連作の間に57歳から63歳になったスコットにとって「ラナウン・サイクル」がキャリア最後の主演シリーズになったように、'50年代初頭から映画会社(製作プロ)の移籍ごとの契約期間の空白にテレビドラマの演出のアルバイトをしていたベティカーは、「ラナウン・サイクル」最終第7作と実話ギャング映画『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』をもって'60年を最後に映画界を離れてテレビに移ってしまいます。テレビの仕事を数年続けて事実上引退に入る間際にベティカーの西部劇第1作『シマロン・キッド』に主演したオーディ・マーフィが独立プロでベティカー作品の製作を買って出、テレビ規模の低予算で作られた『今は死ぬ時だ(A Time for Dying)』'69のあと30年あまりの逝去まで監督作はなく、同作がベティカーの遺作になりました。本作に戻ると、「ラナウン・サイクル」7作でも日本劇場未公開に終わった3作は連作中でも主人公スコットの立場(行動原理・動機)がわかりづらく敵味方も入り組んでいれば話の成り行きも観客の予想をはぐらかすように進み、結末もすっきりしない、と手がこんだひねり方をしています。『七人の無頼漢』もリー・マーヴィンに視点が分かれる話法がありましたが本作の場合はスコットの行動を追う視点とスコットが仇と狙う町の名士役のジョン・キャロルを中心にした人々の動向を客観的に描いていく視点に分かれており、何しろ相棒のノア・ビアリー・Jr.ともども町に乗りこんできたスコットはキャロルが資産家の娘と結婚を控えていると知るや結婚式に踏みこんできてキャロルにとある町と女の名前を問いつめて、キャロル殺害を予告し結婚式をぶち壊すのが冒頭の展開です。西部劇の主人公が復讐者=探索者型と巻きこまれ型に大別されれば本作のスコットはいきなり復讐者として現れるのですが、動機たる過去の因縁がなかなか明かされないため、ジョン・キャロルが観客の共感を誘うような人物像ではないので主客転倒とまではなりませんが、スコットの行動の正当性を明かすのが先送りして話が進むためスコットとビアリーの無法者二人が町の平和を荒らしに来たようにしか見えない。前回「ラナウン・サイクル」を製作ハリー・ジョー・ブラウン、監督バッド・ベティカー、脚本バート・ケネディ、主演ランドルフ・スコットが不動のチームのように書きましたが、実は本作と次作ではバート・ケネディは脚本を外れていてチャールズ・ラングがベティカーと共作で脚本を担当しており、この2作は原作小説の映画化ですから製作のブラウンによる企画でケネディが乗り気でなかったためラング脚本になったのかもしれません。また本作と次作は原作者は別ですが、西部アクション小説でもサスペンス・ミステリー要素が強い内容と思われ、プロットは大枠としては「ラナウン・サイクル」のパターンから外れないものですが展開・話法はクライマックスまで観客のストレスとフラストレーションが高まっていく手口を使っています。試写用プリントが配給会社までは来たのかもしれませんがそうした内容から内部試写だけで「これは当たらないだろう」と見送られたのではないか。2017年に「ラナウン・サイクル」連作7作が日本盤初DVD化された際のプレス資料の紹介を引きましょう。
○解説(メーカー・インフォメーションより) ランドルフ・スコットが凄みを見せる異色ウエスタン、本邦初公開!【スタッフ】 監督・脚本:バッド・ベティカー、製作:ハリー・ジョー・ブラウン、脚本:チャールズ・ラング、撮影:バーネット・ガフィ、音楽:ハインツ・ロームヘルド 【キャスト】 ランドルフ・スコット、ジョン・キャロル、カレン・スティール、ヴァレリー・フレンチ
○あらすじ(同上) 南北戦争後のサンダウンの町の教会で、町を牛耳る実力者テイト・キンブロウ(ジョン・キャロル)とルーシー(カレン・スティール)の結婚式が行われようとしていた。キンブロウの目当てはルーシーの父の財産で、愛人のルビー(ヴァレリー・フレンチ)を平気で式に参列させるような男だった。 祝宴に沸く町にバート・アリソン(ランドルフ・スコット)と相棒のサム(ノア・ビーリー・Jr)が現れた。バートは酒場でキンブロウの息のかかった保安官スウィード(アンドリュー・ドゥーガン)らに因縁をつけた。不穏な空気が漂う中で結婚式は始められたが、教会に乗りこんできたバートは、新郎のキンブロウに殺害予告をし、結婚式をぶち壊して馬屋に立てこもった。 町医者のドク(ジョン・アーチャー)はバートの行動にいわくがあると感じとる。バートは妻メリーを3年前に失い、その原因がキンブロウとの関係にあると信じ、復讐に来たのだった。だが、サムがスウィードの手下に背後から撃たれて死に、バートの怒りは頂点に達する。 いつものユーモアを封印し、アウトロー役に凄みを見せたスコットの演技。お決まりの対決は描かれず、曖昧な善と悪の対立、苦みの残る結末など西部劇の定番を覆した内容にスコット自身が製作を熱望したと言われ、正統派のヒーロー役から一転して新境地に挑戦した異色作。
 ――これでもよくまとめたもので、別に難しいことはない娯楽西部劇の小品でありながら、本作(また次作)を一見して家族や友人にどんな映画か簡単に筋を話せる観客はほとんどいないのではないかと思われ、それは何より主人公のスコットの行動の善悪がわからないからでもあれば、スコットと仇のキャロルの対決というかたちで決着がつかないからでもあります。スコットが殺害予告という形で行ったキャロルへの告発は町の雰囲気をキャロルに対する猜疑心に変え、相棒のビアリーは殺されてしまいますが町医者のジョン・アーチャーによってキャロルとスコットの過去の因縁、キャロルがスコットの妻を誘惑し自殺の原因を作ったのが明らかにされるので、ビアリーを殺されたスコットはキャロルの息のかかった保安官とその手下を撃退しキャロルと対決に向かいますが、すでに資産家とその娘の婚約者にも見限られて町の名士の座から失楽したヤケになっているキャロルはスコットの対決を進んで受けようとする。撃ち合いになるその寸前にキャロルは愛人のルビー(ヴァレリー・フレンチ)に脚を撃たれてしまい、愛人は待たせた馬車にキャロルとともに乗りこんで、町の人々の冷たいまなざしを浴びながら去っていきます。保安官たちとの銃撃戦で負傷したスコットも茫然とキャロルが出て行くのを見送ると、映画はそのままスコットが脚をひきずりながら町から歩み去る場面で終わります。キャロルが結婚しようとしていた資産家の娘のルーシー(カレン・スティール)はキャロルを見限りますが、この設定では土台無理ですがスコットと結ばれる展開にはならないのでヒロインの役割でもありません。仇の男を社会的に破滅させる具合にスコットの復讐は済んだと言えばいえますし、本当に殺害という手段で仇討ちしたら主人公もまた罪人になってしまうので、この話は原作からして主人公の極端な告発によって仇相手の過去の所業が露見し仇相手は社会的信用をすべて失い町から追放されてしまう、そんな筋立てのスモール・タウンものサスペンス・スリラーを西部劇で企てた作品と見るのが妥当でしょう。西部劇では普通こうした解決にはならずもっとばっさりと罪業は断罪されますから、本作も観客はそういうつもりで観始めて、それにしてもこれじゃランドルフ・スコットが言いがかりをつけに来たならず者みたいじゃないか、変な映画だなと思うと結局妙に陰湿な展開で停滞状態が続いて、婚約者が男に見切りをつけ情婦が決闘に割りこんで男と町から出て行く、と女が決着をつけることになります。一般的な西部劇なら何だこのグダグダの展開は、と突っ込みたくなるところですが、『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』と並べて観てくるとこれもスコット西部劇のヴァリエーションとしてありかな、という気がしてくる。ハッピーエンドでもバッドエンドでもない反ドラマ的ななし崩しの結末で、つじつまだけは一応合っている皮肉なものです。プレス資料の「お決まりの対決は描かれず、曖昧な善と悪の対立、苦みの残る結末など西部劇の定番を覆した内容にスコット自身が製作を熱望したと言われ、正統派のヒーロー役から一転して新境地に挑戦した異色作」とはよくまとめたもので、連作の1編としても本作についての正当な評価はまだまだこれからと思われます。また今後も改めて本作が突出した評価を得ることはないかもしれません。

●5月27日(月)
『ブキャナン・ライズ・アローン(ブキャナン 馬に乗る)』Buchanan Rides Alone (プロデューサーズ&アクターズ・カンパニー=コロンビア'58.Aug.1)*79min, Technicolor, Widescreen : 日本劇場未公開(テレビ放映・映像ソフト発売) : https://youtu.be/rHFFO3qe4Ic (Trailer)

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 前作『ディシジョン・アット・サンダウン(日没の決断)』が先立つ『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』とまず違ったのは、映画のほとんど全編が荒野の岩山地帯(アリゾナ・ロケ)で展開される前2作と違って撮影所の西部の町のセット内で展開されることで、室内はもちろん屋外も町中なのでオープンセットでしょう。さすがに2作連続アリゾナ・ロケのあとではハリウッド内の通える距離のセット撮影にしたいと主演のランドルフ・スコットからの要望もあったかもしれませんし(本作はついに60歳の作品です)、前2作の業績でベティカー、スコットともに出資者のプロダクション製作でも配給のコロンビアと話をつけて撮影所が使えるようになった、とも思われます。それではアリゾナ・ロケの荒涼とした西部が画期的だった『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』より後退ではないか、とする見方も当然あるでしょうが、ベティカーやスコットにすればそれらの作品で獲得したものを従来型のスタジオ撮影システムの中で試したい意欲もあったのが前作と本作のスモール・タウンもの西部劇であり、前作『ディシジョン~』が復讐者=捜索者(追究者)型主人公がネガティヴなかたちで登場する作品ならば、本作は形式的には典型的な巻きこまれ型主人公の話です。その名もアグリータウンという白人アグリー一族が仕切ってメキシコ人を搾取している町があり、若いメキシコ人が親族を殺された復讐のため支配者一族の青年に発砲する事件が起きる。リンチにあいそうになったメキシコ人青年を酒場に居合わせた流れ者のスコットが助けますが、メキシコ人青年もリンチから助けようとしたスコットもアグリー一族の保安官に逮捕され、絞首刑になりそうになる。そこにアグリー一族の先の青年の父親で町の判事(しかも保安官の兄)が処刑を止めにやってくる。何ら正義感でも何でもなくて、州議会が近いので公正な法執行のアピールのためにリンチ処刑を止めさせただけで、結局メキシコ人青年は死刑判決を受け、スコットは釈放されるも傭兵をして稼いだ所持金を保安官に没収されてしまいます。その上スコットは保安官に命じられた手下に命を狙われますが、判事が保身のために公平な人事アピールをと任命していたメキシコ系保安官助手がスコットを助け、さらに拘置中のメキシコ人青年死刑囚の脱獄の手助けを条件にスコットの財産(袋一杯の金貨)を取り戻す助けをしよう、と手を組むことになる。だいたいこういう話ですから撮影所内のスタジオ、室内セット、町中のオープンセットだけで話は展開されますし、それで過不足ないスケールの話です。本作も前作同様クレジット・タイトルではチャールズ・ラング単独脚本ですが、前作も実際はベティカーが共同脚本を手がけていたように本作でもベティカー、そしてバート・ケネディがノンクレジットながら共同脚本に参加しているそうで、原作小説の選択も前作より明快なものだったか『ディシジョン~』よりずっとすっきりしています。本作も日本盤初DVD化の際のプレス資料を引いておきます。
○解説(メーカー・インフォメーションより) 二転三転する面白さ!バッド・ベティカー監督×ランドルフ・スコット主演の秀作アクション・ウエスタン!【スタッフ】監督・脚本:バッド・ベティカー、製作:ハリー・ジョー・ブラウン、脚本:チャールズ・ラング/バート・ケネディ、撮影:ルシアン・バラード【キャスト】ランドルフ・スコット、クレイグ・スティーブンス、バリー・ケリー、ピーター・ホイットニー
○あらすじ(同上) トム・ブキャナン(ランドルフ・スコット)は、傭兵で稼いだ報酬を手にして西テキサスの故郷への道すがら、メキシコとの国境の町アグリータウンに入った。宿を取り、食事のために酒場に出向くが、そこで若いメキシコ人青年ホアン(マニュエル・ロハス)がロイ・アグリー(ウィリアム・レスリー)という若者を突然撃つという事件が起きた。 取り押さえられ袋叩きに合うホアンを助けようとしたブキャナンも共に捕らえられ、ロイの叔父で保安官のルー・アグリー(バリー・ケリー)によって、裁判もなく絞首刑にかけられることになってしまう。あわやという時、ロイの父でルーの兄の判事サイモン・アグリー(トル・アベリー)が現れ、公正な裁判を受けさせると言って私刑を止めさせた。 一人息子が殺されたのにサイモンがそうしたのは、州議会選を控え、法と秩序を守る人物像をアピールする絶好の機会だったからだ。しかし、サイモンによる裁判の結果ブキャナンは釈放されるが、弁明を一切しなかったホアンは死刑の宣告を受けてしまう。保安官はブキャナンから金を没収した上に、二人の手下に命じ、町はずれで殺害しようとするが……。 ハリー・ジョー・ブラウンとランドルフ・スコットの共同プロダクション製作によるウエスタンの秀作。「ラナウン・サイクル」と呼ばれる傑作群の中でも特に起伏に富んだストーリーで、二転三転する展開に目が離せない一本。未公開ながら西部劇ファン必見の娯楽作である。
 ――先に書いた通り本作後半はメキシコ系保安官助手のエイブ・カルボ(クレイグ・スティーヴンス)がスコットの危機を救う相棒になり、アグリー一族への復讐を図った同朋ホアンを救出する手助けをします。アグリー一族はメキシコ系アメリカ人を弾圧・搾取する権力者として描かれており、これがユニヴァーサル時代の'53年作品『平原の待伏せ』『黄金の大地』から持ち越してきた親メキシコ派アメリカ人監督ベティカーのテーマなのは、本作で十分に活かされていて頼もしい感じがします。本作はメキシコ人青年死刑囚ホアンの救出、さらにアグリー一族の青年ロイ(ウィリアム・レスリー)を人質に捕ったスコットの金貨袋(相当な金額、数年分の年収以上なのが暗示されています)との交換がクライマックスになっていますが、ロイの父の判事と保安官はアグリー一族の兄弟ながらたがいに強欲で仲も良くないのもこのクライマックスの伏線だったのか、と舌を巻くくらい活きていて、スコットは受動的な巻きこまれ型主人公がもともと似合いますが、スコットが防御と牽制だけしているうちに悪党同士が同士討ちで自滅していくパターンが本作では見事に決まっています。連作中例外的にヒロインに当たる女性が皆無という男ばかりの西部劇ですが、同性愛的な意味ではなく(カトリックのメキシコでは同性愛者はもっとも嫌悪・侮蔑の対象です)健康なメキシコ人青年ホアンが救うべき相手になっているので、本作にヒロイン登場の余地はなかったのでしょう。異色作という点では前作『ディシジョン~』と対をなし、また副人物が意外な役割を担うなど展開にも共通点があり、また全体としては連作中色艶の不足した作品ながら、『ディシジョン~』より積極的に良い所を見つけようという気にさせるのは、やはりバート・ケネディの脚本参加が要所要所をきっちり引き締めているのが作品に表れているからだと思います。そしてケネディが正式に脚本に復帰した次作『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』は新たにプロダクション名も「ラナウン・ピクチャーズ」となるのです。