人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年6月3日~6月5日/フリッツ・ラング(1890-1976)のアメリカ映画(7)

 アメリカ時代のフリッツ・ラングはメジャー会社との長期契約を持てなかった監督で、RKOからの2作『無頼の谷』『熱い夜の疼き』に続いてはワーナー・ブラザースからの単発で『青いガーディニア』、続いてコロンビアから2作『復讐は俺に任せろ』『仕掛けられた罠』を監督します。今回ご紹介するその3作に続いて20年ぶりにMGMからのアメリカ時代(または全キャリアで)唯一のファミリー向けアドベンチャー映画『ムーンフリート』'55、そして再びRKOでマスコミ犯罪映画の2作『口紅殺人事件』『条理ある疑いの彼方に』'56を監督しますが、ラング自身は自信作だった『口紅殺人事件』に間髪入れず手がけた『条理ある疑いの彼方に』は編集権すら与えられず、次回作は25年ぶりに戦後西ドイツからの依頼作品になります。眼疾の兆候があったラングは1960年の『怪人マブゼ博士』を最後に70歳で監督業を引退することになりますが、西ドイツでの作品も現地に出向して監督したので1976年の逝去までジャン・ルノワール同様ロサンゼルスを住まいにしていました。次回でラングのアメリカ映画は終わり、その次でドイツ映画界への復帰作をご紹介してラング作品は一巡します。おそらく今回の3作までがまだ監督業引退を予期せず作られた最後の時期の作品なのです。

●6月3日(土)
『青いガーディニア』The Blue Gardinia (米ワーナー'53)*88mins, B/W

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アン・バクスター(1923-1985)はルノワールの『スワンプ・ウォーター』'41やウェルズの『偉大なるアンバーソン家の人々』'42、ワイルダーの『熱砂の秘密』'43、グールディングの『剃刀の刃』'46と作品に恵まれ、マンキウィッツの『イヴの総て』'50が決定的な代表作になった女優で、本作と同年にはヒッチコックの『私は告白する』のヒロインにも起用されているが、'60年代以降出演作品が激減するのは元々上流階級出身だったからになるようで、大建築家フランク・ロイド・ライトの孫娘という家系なのはアメリカでは貴族階級みたいなものだろう。デボラ・カーと並んで育ちの良さが漂うので演技は上手いが鋭さに欠ける、と思うことが多いが(『イヴの総て』もそれだけが不満)、本作のバクスターはいい。同僚二人とシェアルーム暮らしの平凡な電話交換手OL役で、映画はルームメイト二人がデートに出かけた後に一人で自分の誕生日を祝いながらアジア勤務の恋人からの手紙を読む所から始まる。「東京で知りあった駐在員の女性と恋に落ちた。結婚する。すまない。幸せを祈る」ガーン、と落ちこんでいた所にルームメイトをデートに誘う似顔絵画家からの電話がかかってきて、画家の方も相手は誰でもいいので中華レストラン「ブルー・ガーディニア」でデートをすることになり、男は職業柄手馴れたプレイボーイだしヒロインもぐいぐいやけ酒が進む。レストランではナット・キング・コール(実名出演)が店のテーマ曲「青いガーディニア」を歌っている。家まで送る前にちょっと休もう、と画家のアトリエに寄るが、千鳥足で倒れそうな所を抱きとめられて流れで何となくキスしてしまう。当然男は迫ってくるがヒロインは抵抗し、暖炉脇の火掻き棒を振り回すと背後の鏡を大破させてしまい、視界がぐるぐる廻って気づくと翌朝の自宅のベッドでルームメイトに起こされていた。出勤して殺人事件の噂話に嫌な予感がし、夕刊を手に取ると似顔絵画家がアトリエで火掻き棒で撲殺されたのを知る。一方レストランの目撃証言から事件直前に一緒にいた女性が当然最有力容疑者とされ、スクープを目論む新聞記者が「ブルー・ガーディニア、君の力になりたい」と新聞広告を出し、ヒロインは自分が犯人かもわからないまま新聞記者に相談しようとするが……。ここまでが前半の展開で、バクスターの平凡なOLぶりが実にいい。事件のからくりは大したことないが真相が明らかになるまでの登場人物たちの行動や心の動きに無理がなく、前作『熱い夜の疼き』ではメロドラマに徹して成功した庶民ドラマが今回は得意の犯罪映画に戻って柔軟で軽やかな仕上がりを見せている。ラングの現代ものの犯罪映画にはこれまではどこか病的なこじつけがあって、それはそれで成功作も失敗作も平等に生み出されてきたのだが、『飾窓の女』の「わけがわからないうちに正当防衛」と並んで本作の「酔っぱらって正当防衛、でも酔っていたので覚えていない」という他愛もなさが普段ラングの映画の陥りがちな陰鬱さ(『熱い夜の疼き』にもそれはあった)から本作を救っているのはいかにもチョロそうなバクスターの好演もあって愛らしい小品佳作になった。DVDのパッケージ解説によると近年は本作と『口紅殺人事件』『条理ある疑いの彼方に』(ともに'56)を「Newspaper Trilogy(新聞社三部作)」と呼ぶのが通例のようだが、本作の作風を思うとアメリカ社会への嫌悪が強い'56年の2作と本作では三部作と呼ぶのは不適切ではないか。

●6月4日(日)
復讐は俺に任せろ』The Big Heat (米コロンビア'53)*89mins, B/W

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・三部作というなら'56年の2作と合わせるべきは本作だろう。『激怒』'36とともにアメリカ国立フィルム登録簿選定作でもあって一般的にはアメリカ時代のラング最後の傑作。原作は当時汚職警官シリーズで新進ベストセラー作家になっていたウィリアム・P・マッギヴァーンで、上層部の汚職を知って脅迫を受けた警官の自殺から議員選挙出馬中のギャングのボスに目星をつけた主人公(グレン・フォード)が暗殺を狙った自家用車の誤爆で妻を殺され、捜査中止の上官命令に背いてバッジを返上してギャングの部下の情婦(グロリア・グレアム)を通して事件の全容を暴き、実行犯を警察に引き渡し、上官の免職と入れ替わりに警察に復職するまでをラングもやればできるじゃんと感嘆するほど手際良く描く。ラングの映画を多く観た人がたいてい指摘するのはラングの映画は最初はテンポ快調なのに前半1/3を過ぎたあたりからダレ始めるのが悪い癖で、これでもかというくらいピストルだのナイフだの爆弾だの毒薬だの時計だの鏡だの文書だの録音テープだのフィルムだのアクセサリーだのイニシャル入りの小物だの事件の証拠物件または伏線となるような映像をだめ押しで何度も何度も何度も観せる場面があればくり返し観せるのだ。サイレント時代に監督になった世代の癖ともドイツ人らしいくどいくらいの几帳面さとも言えるが、サイレント時代からの監督やドイツ出身の監督がみんなラングのようにくどいかといえばもちろんそんなことはないのだからラングの個人的な嗜好でそうなっていた。『青いガーディニア』はその辺も淡泊になって成功した。本作ではそうした映像のだめ押しがほとんどない。原作は昔読んで忘れてしまったが、本作がラングの嗜好とは違う方向性なのに無駄のない成功作に成ったのは前記あらすじからも一目瞭然なようにこれって保安官ものの西部劇そのままだからだろう。ラングの西部劇3作『地獄からの逆襲』『西部魂』『無頼の谷』はどれもラングには珍しく引き締まってしかも登場人物の造型に無理のない秀作になっていた。現代ニューヨークを舞台にしながら本作の登場人物たちは西部劇の世界に生きていて、その思考も行動原理も西部劇の登場人物そのままだからラングは余計(とは必ずしも言えないが)な装飾や仕掛けを抜きにストレートに人物の行動を追うだけで本作を作り上げることができた。だったら西部劇を作れば良かったではないかとも言えるし、西部劇のラングほど本作はミスマッチなマッチングによる魅力を持たないが、普通の犯罪アクション映画として誰もがぐいぐい面白く観られて、一応社会派的なテーマ性も備えている点で、これほど破綻のないラング作品は珍しい。これがいけるから他のラング作品もいけるかというと10中8、9無理だが、ラングの犯罪映画の現代ものとして最後になった'56年の『口紅殺人事件』『条理ある疑いの彼方に』の前にかろうじて本作があるのはホッとする。というのは……。

●6月5日(月)
『仕組まれた罠』Human Desire (米コロンビア'54)*91mins, B/W

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・同じコロンビアでグレン・フォードグロリア・グレアムを主演に撮ったフィルム・ノワール。とすれば『復讐は俺に~』の成功再びを期待するが、本作はエミール・ゾラ原作のルノワール作品『獣人』'38に惚れこんだプロデューサーの企画だったそうで、ルノワール作品(と同一原作)のリメイクなら『牝犬』'31とは似ても似つかない『緋色の街/スカーレット・ストリート』'45があった。『緋色の~』はダドリー・ニコルズのシナリオもあってか大傑作になったが、本作はラング自身が気乗りせず、公開後も「ルノワール作品にはまったくおよばない」と公言してはばからなかったほどで、『獣人』のジャン・ギャバン(鉄道運転士)とシモーヌ・シモン(馘首された車掌の妻)の夫殺しを企む不倫カップルが本作のグレン・フォードグロリア・グレアムで、微妙なのが本作では名優フレデリック・クロフォード(『オール・ザ・キングスメン』)演じる車掌。この車掌は復職を孤児だった妻の養家の鉄道会社重役に妻を通して願い出るのだが、実は妻は養女だった頃から重役老人の愛人だったのに復職が叶ってから気づいて列車のコンパートメント内で妻に見張りをさせ重役を殺害する。だが偶然乗客として乗り合わせた鉄道運転士が殺害犯の客車移動の証人になり、夫婦が居合わせたことに気づくが誰も見なかった、と証言する。夫は車掌に復職するが不安と夫婦仲の悪化で酒びたりになって再びクビになり、一方運転士は妻に不審を問いているうちに夫殺しを依頼される。ところが……、とさらに殺意の行方にどんでん返しが待っているのだが、ゾラの原作ではどうだったか読んだのは高校生の時だったので忘れてしまった。映画ではルノワール版、ラング版それぞれ鮮明に覚えているがラング版は観直したばかりだから当たり前だ。ラング自身がどこら辺を不出来としているかは作者自身の不満なのでわからないが、観客(視聴者)の一人として感じるのはクロフォード演じる夫の惨めさが不倫カップルよりも強烈で、グレン・フォード演じる運転士よりもクロフォードとグレアムの陰惨な夫婦関係の方が圧倒的に印象に残る。グレン・フォードは『熱い夜の疼き』のロバート・ライアンに通じる抑圧を感じさせるいい俳優だが、クロフォードの貫禄勝ちとしか言いようがない。『緋色の街~』のエドガー・G・ロビンソンの末路を思わせるクロフォードのキャラクターはラングの意図を汲んでいるものと思うが、この映画ではテーマが二つに割れてしまった。それは登場人物たちが選んだ、または追いこまれた、あるいは受け入れた結末からも明白で、これを良しとするか居心地が悪いかは必ずしも映画の出来不出来ではなくてすっきりしない良い映画というのもある。単に評判や興行成績によるものかもしれないが、作者自身が不満を抱いた時点で本作は失敗作になってしまったようにも思われてならない。それが本作以後の作品に反映してしているとは穿ちすぎになるだろうか。