キューブリック監督作品全長編もあと4本になりました。いずれも大作なので2本ずつ2回に渡ってご紹介しますが、そもそもキューブリックの長編劇映画は13本しかないわけです。つい先日フリッツ・ラングの全劇映画をご紹介しましたが、ざっと42本、そのうち4本は2部作ですから正味46本に加えて匿名(別監督名義)が2本あり、うち1本はソフト化されていないので観られませんでしたがジャン・ギャバンの大戦中のアメリカ亡命時のハリウッド・デビュー作『夜霧の港』Moontide('42、共同監督アーチー・メイヨ単独名義)は観られたので、フィルムの現存しないサイレント時代の第1作と第2作を除けば幸運にも全作映像ソフトで再見・初見することができました。ラング作品47本をマラソン視聴とすればキューブリック13本は全部観てもショートステイか社員旅行程度で、確かに大作は多いですが2時間半~3時間越えの大作の数なら戦前ドイツのサイレント時代・戦後西ドイツ復帰後のラングだって大作ばかりです。ただし確かにキューブリック作品は1作に数年かけているだけの重みがあり、年1作ペースで職人監督のキャリアを全うしたラングと比較するのも野暮なことでしょう。今回最初に取り上げる1975年の『バリー・リンドン』の時点でキューブリックは46、7歳ですが、ここから後は1作ごとがライフワークの風貌を見せてきます。こうした孤高の寡作映画作家はエイゼンシュテインやオーソン・ウェルズを持ち出すまでもなくいつの年代にも存在しますが生前常に評価と商業的成功を維持していた例はこのタイプの監督には少なく、何よりヒットメーカーとしてのカンと手腕では抜群だったことがキューブリックの強みだったのを痛感します。
(なお例によってデータはダゲレオ出版『キューブリック』'88に拠りました。)
●6月27日(火)
『バリー・リンドン』Barry Lyndon (米ワーナー・ブラザース'75)*185min, Color, Widescreen (European Vista)
・昭和51年(1976年)7月3日日本公開、配給・ワーナー・ブラザース。上映日数35日、観客動員数10万7,193人、興行収入1億2千478万円(小ヒット/大都市=ヒット、地方=苦戦)。コピー「《風雲児》バリーの華麗なる愛と冒険の大ロマン!構想4年=壮大なスケールとかつてない巨額の製作費で描く映画史上最高にビューティフルなアドベンチャー!今世紀最大の豪華巨編……いま絢爛とときめく」。原作は19世紀イギリスをチャールズ・ディケンズとともに代表する大作家ウィリアム・サッカレー(代表作『虚栄の市』)の初期長編でこの映画化まで一般的にはほとんど忘れられていたもの。日本語訳も本映画化に伴って初めて訳出されたが(角川文庫)19世紀イギリス文学は不人気なのですぐ絶版になっている。時代と舞台は18世紀のアイルランド。幼くして父親を決闘で亡くした母子家庭の平民バリー(ライアン・オニール)は母子ともども親戚家で暮らしていたが、従姉妹ノーラの誘惑で恋人気取りだったバリーは村を訪れた連隊長クィン大尉の求婚を受け入れたノーラに絶望してクィン大尉を決闘で倒し、友人グローガン大尉の手助けで逃走する。早々追い剥ぎに逢い無一文になったバリーはイギリス軍に拾われ入隊し、数か月後増援部隊のグローガン大尉に再会するも勃発した七年戦争のフランス戦線でグローガン大尉は戦死、バリーは脱走兵となる。故郷に向かうバリーはプロシア軍に遭遇し脱走兵と見破られ、仕方なくプロシア軍に入隊。戦功を立てたバリーは社交界の有名賭博師シュヴァリエ・ド・バリバリの従者となり内偵する任務を科せられるが、賭博師もアイルランドからの放浪者という境遇から親友となったバリーは警察を裏切り賭博師の国外追放に便乗してプロシアを脱出、二人で全欧の社交界を荒らしまくる。バリーがイングランドの若い女伯爵リンドン夫人と恋に落ちると間もなく、その夫老リンドン卿は心臓発作で急死する……。ここまでが第1部で、第2部はリンドン未亡人と結婚してバリー・リンドンとなったバリーが爵位の取得に奔走するも失敗し、バリーの放蕩三昧の生活が貴族社会の反感を買い、リンドン夫人の連れ子ブリンドン卿が成長するほどバリーに反抗し、バリーとリンドン夫人との息子ブライアンも幼くして事故死し、リンドン夫人は自殺未遂の後無気力になりバリーは酒に溺れ、ブリンドン卿からの決闘申し込みにバリーは地面を撃つがブリンドン卿の狙撃からバリーは片脚切断の重傷を負い、リンドン邸の主人となったブリンドン卿は生涯年金の代償に生涯イングランド追放の条件を出し、その後のバリーの行方は噂にしか伝わらない、というテロップとともに映画は終わる。最近ラングの『ドクトル・マブゼ(副題、大賭博師)』'22を観直して思い返せばサイレント時代の上流階級映画はなぜギャンブル場のシーンが多いのか、わざわざ副題に『大賭博師』と題しているのかといい歳をして思ったが、本作を観直していんちきギャンブル達人の偽貴族とはいんちきだろうと詐称貴族だろうと上流階級社交界の大スターだったんだな、とようやくわかった。現代では知らないが1920年代まではそういう人物が現代映画に出てきてもリアリティがあった、ということになる(代表作はもちろんシュトロハイムの『愚なる妻』'22)。題材面でもインパクトが強い作品が続いたので鳴り物入りの大作だった本作(当時「少年マガジン」にあった見開き2ページの「淀川長治の映画の部屋」でも取り上げられていた!)は開けてがっくり長閑なイギリス時代劇、というのが全世界的な反響だったようだが、キューブリック映画中これほど再評価が進んだ作品はなくて近年の世界映画ベスト投票では『2001年~』に次ぐ位置につけている。画期的な自然光撮影はもちろんリアリズム手法の革新性、小津安二郎の世界的な見直しに代表される「Slow Movie」の潮流など専門家評価が異常に高い。小さなエピソードごとの演出も細部まで練り込まれて、イギリス軍脱走の経緯(川で水浴中の同性愛カップルの上級兵から持ち物と衣類と馬を盗む)からドイツの出兵中の母子家庭にもてなされてプロシア軍に捕まり民間人を装うもすぐに身元がバレて強制的にプロシア兵にされるまでなど梗概にすれば割愛されるような過程と大胆な飛躍を巧みかつ丁寧に織り交ぜ、大根役者オニールならではの存在感に代表される自然な流露感があり、テーマとしては時代劇版『時計じかけのオレンジ』ながら正反対のアプローチで大成功している。この大きな振れ幅でどちらも1作で独自の完成度を決めてみせたのが実力の証明で、どちらを取るかとなったら本作になるという分『時計じかけ~』への評価も上乗せされるのが本作の再評価の一因でもありそう(逆に『バリー~』への評価が『時計じかけ~』に上乗せされることはあり得ない)。3時間の大作が小気味よく観られ、良い大河小説を読んだ後のような満足感と無常感を抱かせる。円熟すればいいというものではないが広く社会構造や歴史的認識、深い人間性への洞察などにキューブリック作品中もっとも作家的円熟を感じさせる渋みの効いた大人のための大人の映画なのが何よりも本作の強みだろうか。
●6月28日(水)
『シャイニング』The Shining (米ワーナー・ブラザース'80)*119min, Color, Widescreen (European Vista)
・昭和55年(1980年)12月13日日本公開、配給・ユニバーサル。上映日数49日、観客動員数14万8,251人、興行収入2億2千263万4,000円(ヒット='81年洋画配給収入第11位)。コピー「キューブリックの映像がとらえた20世紀最大のモダン・ホラー最高傑作!いま恐怖の潮流が日本全土を押し流す!」。前作が評価、興行成績ともに当時まずまずながら地味な題材ゆえに大ヒット作とはならなかったことからベストセラー作家スティーヴン・キングのホラー小説を映画化し主演も大スターのジャック・ニコルソンを起用、今回は評価はまちまちながら興行成績は狙い通り大ヒット作となる。舞台はコロラド州の観光ホテルで、冬期5か月は雪に閉ざされて休業する間の管理人に新人作家の元教師ジャック(ニコルソン)が雇われ、妻ウェンディ(シェリー・デュヴァル)と幼い息子ダニー(ダニー・ロイド)とともに一冬をこもることになる。ジャックは小説執筆の専念にも好都合と進んで応募したのだが、ホテルの支配人は雇用の決定後に数年前、その年の冬期管理人が発狂して妻子を虐殺して自殺したことを伝える。ダニーはホテル管理の決定を喜ぶ両親の会話を聞いて幻覚を見る。ホテル閉鎖の日、申し送りのために着いた一家はホテルを案内され、ダニーは黒人料理長ハロランに「シャイニング」能力(テレパシー)の素質を見抜かれ、やはりシャイニング能力のあるハロランにホテル内の危険に警戒するよう教えられる。そして親子3人だけの雪に閉ざされた巨大観光ホテルの管理滞在が1か月を過ぎた頃から……。ホラー作品なので梗概はこれだけ書けば十分だろう。もともとストーリー、プロットともに本筋そのものは単純明快を好むキューブリックだから、かつてないほど細かいエピソードを積み重ねて構成した前作の後はセールス・ポイント抜きにも軽いものを作りたかったのではないかと思う。'70年代のホラー映画ブームを横目で観ていたキューブリックとしては、かつて第3作『現金に身体を張れ』(殺人計画の話ではないのに原題『The Killing』はハッタリだと昨日気づいた)をフィルム・ノワールに、『スパルタカス』を70mm大作史劇にピリオドを打つタイミングで世に送ったように、おれが作ればホラーだって、と勝算はあったに違いない。事実良い出来なのだが、キューブリック作品史上初めての手抜き映画なのではないか。引き延ばしの跡が見られるのは第2作『非情の罠』に少しあったがあれは回想シーンで引き延ばしても全編で67分という自主製作の小品だったし引き延ばし感はなかった。本作はダニー少年の幻覚シーンの使い回しがこれでもか、というくらいくり返され音楽的構成と褒めようと思えば効果を認めないでもないが『2001年~』以来のクラシック音楽使用についてことさら触れなかったのはキューブリックの場合はポップアート的なニューヨーク流のキッチュ趣味(キューブリックはウォホールやリキテンシュタインと同時代のニューヨーカーでもある)と感覚的には変わらずクラシック音楽の導入は現実音の強調に伴うものと考えられるからで、従来型の映画音楽が現実音をマスキングしてしまうことに気づいたサウンド映画の再定義に意味はあった。強迫的映像の反復となるともともと広角レンズならではの閉所恐怖症的映像に時おり広所恐怖症(高所はあまり怖くないらしい)も加わるキューブリックの好みもあってか、ニコルソンやデュヴァルの熱演もあって先の読める展開の上に映像までくどいと恐怖と笑いが紙一重で、劇伴と効果音つきサイレント映画を観ているような気になる。いつからこんなサイレントくさかったかと思えば第4作『突撃』からは『スパルタカス』にしろ『ロリータ』にしろSF3部作や『バリー・リンドン』まですべてそうで、実は次作『フルメタル・ジャケット』と遺作『アイズ ワイド シャット』もサイレント映画くさい。正確に言えば現実音と音楽シーンが独立していて、いわゆる映画音楽(映像付随音楽)のオペラ的手法が確立していなかった初期サウンド映画試行時代の発想法に近い。キューブリックは1928年生まれだから映画音楽の確立以降に本格的な映画体験を受けたはずだが、映画作家的なカンからルーティン化した映画音楽やサウンドのあり方を洗い直した時にたまたまサイレント映画のあり得たかもしれない発展型にたどり着いたとも思える。『シャイニング』自体は手抜き映画だが手抜きならではの気楽な楽しみがあり、キューブリック=サイレント監督説の例証には『2001年~』と並ぶ作品(この2作は例によって全然似ていないが)でもある。くどいと言いつつテンポは快調なのでもうちょっとシナリオに凝って内容の伴うエピソードを追加し(料理長ハロランや「シャイニング」能力については伏線が全然生きていない)、2時間半とは言わずとも『時計じかけのオレンジ』くらいの長さは堪能したかった。結末があまりにあっけなくて腹八分目までも行かない。でもまあ、それも狙い通りだったのだろう。