人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年7月1日~3日/イングマール・ベルイマン(1918-2007)の'40年代作品(1)

イングマール・ベルイマンは1918年、宮廷礼拝堂付司祭の息子としてスウェーデンの古都ウサプラに生まれた。ストックホルム王立劇場の演出担当を経た後1944年映画界入りし、45年に第1回監督作品『危機』を発表して以来『不良少女モニカ』『道化師の夜』『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』『沈黙』等の名作を次々に発表、現在世界三大監督の一人として高く評価されている」というのが日本で初めて刊行されたベルイマンに関する単行本『ベルイマンの世界』(ジャック・シクリエ、浅沼圭司訳、昭和43年=1968年竹内書店刊/フランス版原著増補版1966年、初版1960年)のカヴァー袖のベルイマン紹介文です。学生時代から旺盛に自作戯曲を書き演出していたベルイマンスウェーデン有数の映画会社スヴェンスク・フィルムインダストリー(略称SF社)に入社し、まず脚本家として認められました。ベルイマン生涯の全長編劇映画は引退作『ファニーとアレクサンデル』'82まで40作、それ以降の単発的2作の全42作になりますが、最初に取り上げるべきはベルイマン脚本初の映画化作品で助監督も兼ねたアルフ・シューベルイ監督の『もだえ』になります。本作がカンヌ国際映画祭グランプリの「国民賞」部門を受賞したことで国際映画賞総なめ監督ベルイマンのキャリアは始まりました。それにしても、1968年の時点でベルイマンが「世界三大監督の一人」(あとの二人は黒澤明フェデリコ・フェリーニ)と呼ばれるようになっていたとは不思議な気がします。特に集めていたつもりはなかったのですが、最近気づいたらベルイマンのほぼ全作品が手元にそろっていたのでこの際年代順に観直してみることにしました(劇映画3作、長編ドキュメンタリー2作はどうしても映像ソフトが探し出せず、動画サイトで観ることになりました)。引退声明時の'80年代にはもっとも華々しく、沒後は順当に存在感の薄れつつあるベルイマンですが、かつて一世を風靡した名高い作品群、埋もれた作品群を観直してどう感じるのか興味深いところです。

●7月1日(土)
アルフ・シェーベルイ(イングマール・ベルイマン脚本・助監督)『もだえ』Hets (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'44)*101min, B/W, Standard

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・スヴェンスク・フィルムインダストリー(略称SF社)作品で、監督のアルフ・シューベルイ(1903-1980)は演劇畑出身のサイレント時代からの大ヴェテラン。ベルイマン脚本の最初の映画化作品になる本作でカンヌ国際映画祭国民賞受賞、また1951年のストリンドベルイ原作作品『令嬢ジュリー』でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞、以後は演劇界に復帰して78歳の高齢で散歩中自動車事故で急逝。反ファシズムの寓意作品と呼ばれる本作は7年制高校の情景から始まり、暴力的なラテン語教師(スティーグ・イェレル)は生徒たちからサディストの「カリギュラ」と呼ばれ生徒たちには嫌われ先輩老教師からも行き過ぎを注意されるが、注意を受けると「病気なんです」「こんなに私は偉いのに」と泣き崩れて生徒と親しくしようとし、警戒されると怒鳴り出すような最低教師に描かれる。学校前のドラッグストア店員ベッタ(マイ・セッテルリング)は生徒たちの憧れの的だったが、生徒ヴィドグレン(アルフ・シュリーン)は友人と遊び歩いたある夜の帰り道に道端で酔いつぶれているベッタをアパートまで送り届けることになる。数日後同じような状態でベッタを送り届け、ベッタと関係したヴィドグレンは、ベッタの懇願から暴力を振るう情夫の存在を察し、案の定それはラテン語教師カリギュラなのを知る。数日後の学校帰りにベッタに追いすがられたヴィドグレンはベッタを振り払うが、帰宅後悪い予感からベッタのアパートに向かうと彼女は死んでおり、半狂乱で「私じゃない」と叫び続けるカリギュラがいた。検視の結果すぐに泥酔状態のショック死と判明するや否やカリギュラは居丈高になって去る。翌日登校したヴィドグレンは校長室に呼ばれてカリギュラによる素行報告書の確認を受ける。カリギュラの報告書はヴィドグレンがベッタと関係する非行に走ったのを監視していたためベッタの死亡現場に居合わせた、というものだった。得意顔をして現れたカリギュラをヴィドグレンは殴打して退学処分になる。家を出てベッタの部屋で一人暮らしを始めたヴィドグレンを校長が訪ねてきてヴィドグレンに詫び、後援を約束する。翌朝アパートの階段で待ち受けていたカリギュラは校長が昨夜来訪したと聞いて怯え、またもや「病気なんだ、助けてくれ」と哀願するがヴィドグレンは無視して街を見下ろす高台の上で朝日を浴びる。イェレル、セッテルリング、シュリーンとも後に監督に進出する俳優で、ベルイマンの脚本・助監督も合わせて話題性は多いが、セッテルリングをめぐるイェレルとシュリーンの関係が不明瞭で外国人にはよくわからないスウェーデンならではの背景があるのかもしれない、と思わせる。カリギュラは徹底的に卑劣な人物像に描かれているが十分に掘り下げられているようには見えない。初公開当時のインパクトは相当あったと思われるが風化しやすい(乗り越えられやすい)題材のようにも見えて、期待して観るとはぐらかされた感じがする。シューベルイ作品は他には『令嬢ジュリー』しか観ていないが(スウェーデン以外のほとんどの観客はそうだと思う)『令嬢ジュリー』の方が数等良い。だが本来相当陰惨で不愉快な脚本を正面切って映画化した意欲は買える。ベルイマン脚本でなければ忘れ去られた作品かもしれないほどには風化しているが、この時代(第2次世界大戦末期)のスウェーデン映画などそう観られる機会はないから歴史的興味からだけでも一見の価値はある。また表現主義的構図や証明がベルイマン本人の監督作ばかりではなかったのもわかる。クレジット・タイトルがアメリカ産フィルム・ノワール調なのも面白い。

●7月2日(日)
『危機』Kris (スウェーデン/スヴェンスク・フィルム'46)*93min, B/W, Standard

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デンマークの人気劇作家レック・フィッシャー作『母の心』'43をベルイマン自身が単独脚色したスヴェンスク・フィルムインダストリー(略称SF社)からの監督デビュー作。これもクレジット・タイトルがアメリカ産フィルム・ノワール調。平凡な田舎町の中年ピアノ女教師インゲボルイ(ダグニー・リンド)は18歳の養女ネリー(インガ・ランドグレー)とネリーと恋仲の下宿人の獣医ウルフと暮らしていたが、ストックホルムで美容師として成功したネリーの実母イェニーが10年ぶりにネリーを引き取りにやってくる。イェニーの情夫ヤック(スティーグ・オリーン)が社交会を無茶苦茶にしてウルフに叩きのめされるが、母の情夫とも知らずヤックに言い寄られていたネリーはウルフを嫌う。ネリーは母の美容室で働くことを決めて母イェニーに連れられて町を去る。インゲボルイの家に出入りする掃除婦マーリンの出産からネリーを恋しくなったインゲボルイはストックホルムに出てきてイェニーの美容室の豪華さに驚き、ネリーのよそよそしい態度に失望して帰っていく。ヤックはイェニーに隠れてしつこくネリーに言い寄り、遂にピストル持参で自殺をほのめかしてネリーの処女を奪う。そこへ母イェニーが現れ、自殺すると言うのがいつもこの男の手口だから、と娘を慰めヤックを自殺できるならやってみなさい、と罵倒する。ヤックは路上に出て行って自殺する。数日後にネリーは養母インゲボルイの下に帰り、ウルフとともに歩いていく。これも悪役ヤックのキャラクター造型が映画の出来を左右した感じだがやはりヤックのキャラクターの掘り下げが浅く行き当たりばったりに行動する遊び人にしか見えないから結末の自殺もあまりに唐突すぎて、『もだえ』のような原案込みのオリジナル脚本にしてドラマの方向性と統一感を絞ったがよかったのではないか。養母娘の物語とプレイボーイに誘惑される田舎娘の話にテーマが分裂しているのに仕掛けとしては両者が噛み合ってストーリーが展開するのでプロットがご都合主義になっている。原作戯曲のタイトルからして母娘関係の方が主要なテーマだろうと思われるが田舎町がまるで生き生きしていないので(眠気を誘うくらいつまらない)養母インゲボルイに集約される養女ネリーの田舎町への思いが都会に脱出したくて当然に見え、あっさり(というには陰惨な体験を経てこそだが)帰郷してくる結末もあまり説得力がない。『もだえ』もそれほど冴えた技巧を感じさせなかったが、それでも本作と『もだえ』では大ヴェテランのシューベルイとの力量の差を歴然と感じる。スウェーデン映画も主流は小国らしくロマンス映画とホームドラマだったそうで、本作もロマンス映画とホームドラマの両方を狙って職業監督の力量を試した作品だろうが、例えばやはり多作家かつ少し年長でデビューの早かった木下惠介と較べるとまだまだ見劣りするのは如何ともし難い。さすがのベルイマンもデビュー作から傑作を生み出せはしなかった、しかしセックスを描く趣味はデビュー作から露骨に打ち出していたのはわかる。

●7月3日(月)
『われらの恋に雨が降る』Det regnar pa var karlek (スウェーデン/マルムステット・プロ'46)*95min, B/W, Standard

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ノルウェーの劇作家オスカル・ブラーテンの戯曲『すてきな連中』'34の映画化で、『危機』の不評・不成功からSF社ではなく独立系のローレンス・マルムステット・プロに招かれスウェーデン大衆映画劇場社との合作で製作された。大きな黒いこうもり傘をさした老人が「これから語るお話は……」と映画は始まる。貧しい女店員マッギ(バルブロ・コロブロイ)は所持金ぎりぎりまで遠くに行ける切符を尋ねているうちに乗車に遅れ、貧しい労働者ダーヴィッド(ビルイェル・マルムスティーン)は雑踏でリンゴを詰めた袋を落として乗車に遅れ、リンゴを拾ったマッギは宿泊券を持っていたダーヴィッドに誘われ救世軍の宿泊所に泊まる。二人は同じ行き先を決めるが着いた田舎町は大雨でずぶ濡れになりながら線路の上を歩き、廃屋を見つけてやっと休むがすぐに廃屋の持ち主の地主が現れ、条件つきでこの家を借りることになる。地主の紹介で園芸所に勤めることになった二人は田舎町のさまざまな変人と親しくなる。几帳面に家賃を支払う二人に地主はローンで地所と家を買わないか持ちかけられ、同じ頃マッギの妊娠が判明し二人が出会う前までマッギがつきあっていた男の子供とわかってダーヴィッドはショックを受けたが、ダーヴィッドもマッギと会う直前に刑務所を出たばかりと告白し、マッギの懸念を押し切って家の購入を決意する。二人は正式に入籍しようとするが戸籍係は婚約の予備申請なしに婚姻は認められず、子供は私生児として養護施設に引き取られると手続きしようとし、ダーヴィッドは怒って帰ってくる。マッギの出産は死産に終わり、ダーヴィッドは盗みの冤罪で園芸所をクビになる。しかも土地係の役人が来て区画整理の対象区域だからと立ち退きを迫る。地主を問い詰めると土地はとっくに町に売ってあったと嘲られ、ダーヴィッドはまた来た役人を追い返すが公務執行妨害で訴えられる。裁判の日、映画冒頭のナレーターの老人が国選弁護人として現れて、二人は無罪になるが再び放浪生活に戻ることになる。にわかに雨が降り出し、老人が二人に大きな黒いこうもり傘を渡して別れを告げる。誰だったんだろう、とダーヴィッド。きっと天使なのよ、とマッギ。二人は雨の中を一つ傘をさして歩き出す。冒頭とラストにナレーションを配置するのは前作『危機』でも使っていたが本作はナレーターが実は結末で登場人物になるあたりに工夫がある。貧しく訳ありのカップルはスタンバーグの『紐育の波止場』'27やカルネの『霧の波止場』'38、成瀬巳喜男の『夜ごとの夢』'33や小津安二郎の『東京の宿』'35といった傑作の前例があり、スタンバーグ(カルネ経由)やカルネの影響は色濃く感じられる。だが『もだえ』とも『危機』と一転して風通しの良い映画になっているのは失うものなど何もないたまたま知りあっただけの男女が夫婦の絆を築いていく過程がじっくり描かれているからで、ベルイマンでなくても撮れる内容かもしれないが自然な流露感や抒情性の萌芽が第2作にしてようやく生まれてきた。惜しまれるのはベルイマン映画はほとんどセット撮影で照明と撮影もいかにもセットを感じさせるものになっており、ロケ撮影を多用していたら本作もさらにすがすがしいものになったろうと思うが、撮影日数と低予算から手間のかかるロケ撮影が不可能だったらしいのは肝心な雨のシーンのセット撮影の限界から来るショボさにも表れている。ベルイマンがレギュラー俳優をキャスティングするようになるのは'50年代中期からだが、マルムスティーンは『シークレット・オブ・ウーマン』'52まで初のベルイマン作品のレギュラー俳優になる。ともあれ第2作でベルイマンはようやく将来性が見えてきた。本作はそれで十分だろう。

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*[ 原題の表記について ]スウェーデン語の母音のうちaには通常のaの他にauに発音の近いaとaeに近いaの3種類、oには通常のoの他にoeに発音の近い2種類があり、それぞれアクセント記号で表記されます。それらのアクセント記号は機種依存文字でブログの文字規格では再現できず、auやoeなどに置き換えると綴字が変わり検索に不便なので、不正確な表記ですがアクセント記号は割愛しました。ご了承ください。