人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年9月23日・24日/重鎮ウィリアム・ディターレ(William Dieterle, 1893-1972)作品を観る(1)

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 ドイツ出身の映画監督ウィリアム・ディターレ(William Dieterle, 1893-1972)は1920年から映画監督活動を始める一方で当時ベルリン随一の大家だったマックス・ラインハルトの劇団で修行を積み、映画俳優としてもドイツのサイレント映画期の名作『裏町の怪老窟』(1924、パウル・レニ)の主演や『ファウスト』(1926、F.W.ムルナウ)に出演し、演劇界からコンラート・ファイトやエミール・ヤニングスを映画俳優として発掘しました。監督第1作もマレーネ・デートリッヒを主演女優に起用しています。1927年以降は自作自演の作品も増え、1930年にはワーナー・ブラザース映画社からハリウッドに招かれ、当初はアメリカ映画のドイツ語版制作を担当し、ハンガリーからマイケル・カーティスをハリウッドに招聘する働きもあり、すぐ翌年に監督に登用されました。1934年までにハリウッドでは早くも6作の監督作があり、生涯の監督作品全88本のうち40本あまりはこの時期まで監督作ですが、すでに一流監督の力量を認められていたディターレの名を一躍高めたのはドイツ時代の師、ラインハルトと共同監督したラインハルトによる舞台劇の映画化作品『真夏の夜の夢』'35とパスツールの伝記映画『科学者の道』'35でした。『真夏の夜の夢』はアカデミー賞4部門ノミネート・2部門を受賞し、『科学者の道』はアカデミー賞4部門ノミネート・主演男優賞を含む3部門受賞とヴェネツィア国際映画祭主演男優賞を受賞します。『科学者の道』は伝記映画の流行を呼び(日本でもいち早く『情熱の詩人石川啄木』'36が作られました)、次にディターレが撮った伝記映画『ゾラの生涯』はアカデミー賞10部門ノミネート・作品賞を含む2部門を受賞、ニューヨーク批評家協会賞でも年間最優秀作品賞を受賞します。アメリカにあってヨーロッパ風の作風が歓迎されたディターレは戦後まで長くハリウッドで活動しましたが戦後のマッカーシズムの風潮から元共産主義者の容疑でパスポートを没収され、やむなくイタリアに渡り、その後は西ドイツの映画界に身を置いて晩年を迎えました。ドイツ出身のハリウッド映画の監督はエルンスト・ルビッチ、ディターレマイケル・カーティスエドガー・G・ウルマーロバート・シオドマクフリッツ・ラングダグラス・サーク(渡米順)と才能ある監督がひしめいていますが、商業的・業界評価的にもっとも成功したのはカーティスとディターレでしょう。ラング、ルビッチ、サークは現在ではカーティスやディターレ以上の大監督の評価が批評家間では定着していますが、業界評価を端的に反映したアカデミー賞ではルビッチは3回監督賞にノミネートされるも逝去の前年に特別賞を与えられたきりで、ラングとサークはノミネートされた作品すら1作もありません。しかしカーティスの『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』『カサブランカ』やディターレの『ジェニイの肖像』『旅愁』はルビッチやラング、サークのヒット作よりも広く同時代の観客に愛されたので、ドイツ映画界を出自として生粋のハリウッド映画出身監督と競合しながら大衆の好みを巧みに把握して成功したディターレの諸作は今観ても楽しめるものです。今回は8作品を観直してみましたが、それでも全作品の1/11でしかないのですから('35年以降の作品ならば1/5ですが)まだまだ未見の作品もあり、廉価版でもっと出ないかなと望まれます。ディターレは大衆性の高い作風だったため、ルビッチやラング、サークと較べてかえって代表作以外の映像ソフト化が進んでいないのです。なおご紹介するディターレ作品はすべて日本公開当時の「近着外国映画紹介」に内容解説がありますので、古風な文体の妙が捨てがたく歴史的文献として誤植を正し新かなづかい表記に直して引用させていただきました。

●9月23日(土)
真夏の夜の夢』A Midsummer Night's Dream (共同監督マックス・ラインハルト/ワーナー'35)*133min, B/W; アカデミー賞最優秀作品賞(プロデュース/ヘンリー・ブランク)・最優秀助監督賞(シェリー・シャーズ)ノミネート、最優秀撮影賞(ハル・ムーア)・最優秀編集賞(ラルフ・ドーソン)受賞/日本公開昭和11年3月(1936/3)

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(キネマ旬報近着外国映画紹介より)
ジャンル ドラマ
製作会社 ワーナー・ブラザース映画
[ 解説 ] シェークスピアの傑作夢幻劇の映画化で、ドイツ劇団第一の演出家といわれたマックス・ラインハルトが映画処女作品として製作したもの。脚色は「夫の日記」のチャールズ・ケニヨンが「最初の接吻」のメエリーマッコール・ジューニアと協力し、監督にはラインハルトを助けて「流行の王様」「暁の砂漠」のウィリアム・ディーターレが当たった。出演者は「シスコ・キッド(1935)」のジェームズ・キャグニー、「ブラウンの千両役者」のジョー・E・ブラウン、「春の夜明け」のディック・パウエル、「最初の接吻」のジーン・ミューア、「水曜日の恋」のヴィクター・ジョリー、「頑張れキャグニー」のオリヴィア・デ・ハヴィランド、ヒュー・ハーバート、アニタ・ルイズ、フランク・マクヒュー、ロス・アレクサンダー、アイアン・ハンター、ミッキー・ルーニー、ヴェリー・ティーズデール等の面々で、撮影は「水曜日の恋」のハル・モーアが主任である。音楽はメンデルスゾーンの原曲をエリック・ウォルフガング・コーンゴールドが編曲し、バレーはブロニスロワ・ニジンスカがニナ・テイラードの協力を得て按舞した。
[ あらすじ ] アテネの都はわき返る様なにぎわいだ。大公シーシアス(イアン・ハンター)が婚約のヒポリタ(ヴェリー・ティーズデール)と共に帰ってこられて、明日は盛大な華燭の典が挙げられるのだ。街中が酔って笑っているのに、美しいハーミヤ(オリヴィア・デ・ハヴィランド)だけは泣いている。父が選んだデミトリヤス(ロス・アレクサンダー)と結婚しなければ、法律通りに死ぬか、終生尼僧となるか、の他はない。で、思い切ってハーミヤは恋仲のライサンダー(ディック・パウエル)と2人で魔の森に駆け落ちした。ハーミヤの親友でデミトリヤスに想いを寄せているヘレナ(ジーン・ミューア)は、この事を知らせてデミトリヤスにハーミヤを断念させようと彼に告げる。ところが彼は断念せずかえって2人を追って森にはいる。ヘレナもやむなく追跡する。一方森では妖精の王様オーベロン(ヴィクター・ジョリー)と女王ティタニヤ(アニタ・ルイズ)が仲たがいして、オーベロンは悪戯者の従者パック(ミッキー・ルーニー)に旨を含めて女王を懲らしめる事とし、自分は用足しに赴く。そこへ、更に大公の結婚式の余興に芝居をやるアテネの職人達が、織工のボトム(ジェームズ・キャグニー)を先頭に芝居の稽古をしようと森へやってきた。森の夜は妖精の世界であるのに、人間どもが恋の鞘当てや芝居の稽古をしに来たとは生意気な、とパックは媚薬を用いて、ライサンダーデミトリヤスもヘレナに恋させてしまう。そして一方ではボトムの頭をろばの頭にして、妖精の女王ティタニヤをボトムに惚れさせる。これで森の中は大騒ぎとなった。妖精達は地霊達が奏する不可思議なメロディに乗って、森中を踊り飛び交う。パックは1人手を打って笑い興じ、人間どもの愚かさに腹を抱える。ところへ、オーベロンが帰ってきて、パックの悪戯が度を過ぎる、と叱りつける。その時分には東の空が明るみ始め、やがて夜があける気配だ。妖精達に日の光は大禁物、戯れ騒いでいた一同はどこかに姿を消してしまう。そして媚薬の呪い解けてライサンダーとハーミヤ、デミトリヤスとヘレナ、とが改めて愛を得る。ボトムの頭も元の人間に返り、職人達の芝居は大好評を博する。大公の結婚式が済むとライサンダーとハーミヤ、デミトリヤスとヘレナの結婚も大公のお許しを得て挙げられ、四方八方円満の太平業となる。

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 マックス・ラインハルト(Max Reinhardt、1873-1943)は、アメリカ合衆国やドイツで活躍した伝説的ユダヤオーストリア人演出家兼プロデューサー。1920年代にはドイツ/オーストリア演劇界の皇帝と呼ばれ、シェークスピア真夏の夜の夢』を1927年のアメリカ上演で大成功させて世界的な名声を博します。しかし'30年代にはナチス党の台頭('33年にヒトラー政権成立)でドイツ/オーストリアでの活動が困難になり、アメリカに渡ってウィリアム・ディターレを共同監督に迎えてオリジナル・スタッフと、オリジナル・キャストとワーナーの専属俳優を合わせて映画化した本作が唯一の映画作品になりました。本作はラインハルトとメンデルスゾーンの使用楽曲がともにユダヤ人という理由でドイツ支配圏では上映禁止にされてしまいます。ラインハルトは'37年にはアメリカで演劇上演活動を続け、'38年にはオーストリアからイギリスに亡命、のちアメリカに移住し大戦中に亡命者のまま亡くなりますが、本作は評価も賛否両論、興行的にも非常に微妙ながらラインハルト伝説が追体験できる唯一の映画作品として、特異な内容とともに伝説的作品になりました。初公開以来117分の短縮版が上映されていましたが、1994年以降には133分の全長版が復元され放映・映像ソフト化されています。本作の興業成績が微妙だったというのは、当時全米のメジャー映画配給館約6,000館のうち本作を上映打ち切りにした映画館が約3,000館にも上ったこともあり、必ずしも観客の不入りが原因ではなく配給スケジュールの不手際から起こった上映中止だったそうですが、平均的に上映打ち切りの映画は全米で20館~50館程度だったと言いますから3,000館とは異常極まりない事態でした。作品自体はラインハルトのヒット舞台の本人による映画化という話題性でジャーナリズムを賑わせましたが映画化の成功には賛否両論があり、映画化に当たってワーナーの専属俳優がオリジナル・キャストから変更されているのは組合規定によるものとした上で、映画俳優の起用には成功(ジェームズ・キャグニー)とミスキャスト(ディック・パウエル)の両方が目立ち、舞台版からそのまま起用されたオリヴィア・デ・ハヴィランドのスクリーン・デビューとヴェテラン子役のミッキー・ルーニーの好演は好評であり、森の木々をオレンジ色に塗って撮り上げたという撮影とメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』(1826年作曲)をオーケストレーションし直したクラシック界の神童エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト(1897-1957)の音楽、伝説的ダンサーであるヴァーツラフ・ニジンスキー(1890-1951)の妹ブロニスラヴァ・ニジンスカ(1891-1972)による妖精のバレエの振り付けには賞賛が集まりました。大体その辺りが当時の公約数的評価で、現在では代表的なアメリカの総合映画批評サイト「Rotten Tomatoes」で89点の高得点を得ています。と延々データの孫引きをしてきましたが、普段お世話になることが多い筈見恒夫(1908-1958)『映畫作品辭典』(弘文堂アテネ文庫・昭和29年)でも田中純一郎(1902-1989)『日本映画発達史』(中央公論社昭和32年初版、昭和43年増補版、昭和50年定本版)でも作品紹介項目が立てられ、「ドイツ劇壇の大立者マックス・ラインハルトが渡米して監督した唯一の映画で、シェクスピアの著名喜劇を、ジェームス・キャグニー、オリヴィア・デ・ハヴィランド他ワーナーの若手スターで配役し、ウィリアム・ディターレが監督補助を勤めている」(アテネ文庫『映畫作品辭典』)、「ワーナー・ブラザースの作ったシェイクスピア劇で全一五巻の長尺。監督はマックス・ラインハルトとウィリアム・ディターレ。映画というよりショウの実写に近い。配給会社は東京と大阪で一週間ずつ披露興行をすませたあと、秋まで一般公開を延期した。いわゆるロード・ショー形式の興行として珍しい試みとされ、入場料三円という高額も話題になった。(昭和一一・三・四、日比谷映画劇場)」(中央公論社『日本映画発達史・II』)と、戦前日本公開の外国映画の話題作だった事情を伝えています。実はデータの孫引きで感想も終わっていて、この映画はハヴィランド、キャグニー、ルーニーの好演、素晴らしい撮影と音楽、バレエが魅力と言ってしまえば他には「よくこんな映画を作ったものだなあ」と嘆息するしかありません。一種のアート系映画なのですが、シェイクスピア自体が古典的な大衆演劇なので映画の人気俳優や新人女優を起用することで十分華やかな大衆性を持っているから高踏的とも言えない。ラインハルトは当時英語が話せなかったのでディターレが共同監督になったそうですが、演出面では師のラインハルトの指示通りでしたでしょうし、映画化に要する技術面の統一はディターレによるものと思われます。欧米の観客なら日本人が近松の世話物や『忠臣蔵』映画を観られるように身近なものなのかもしれませんが、シェイクスピアでも悲劇作品の映画化なら日本人にもドラマチックに観られるのに較べると、喜劇作品だけに素材自体のとっつきにくさと合わせて異様さの方が強く、観ていてわけがわからないまま終わってしまったという印象を受ける人の方が多いのではないでしょうか。観るだけの価値はある古典的作品にしても、外国映画の名作すなわち日本の観客にとっての名作とは限らない一例かもしれません。

●9月24日(日)
『科学者の道』The Story of Louis Pasteur (ワーナー'35)*86min, B/W; アカデミー賞最優秀作品賞ノミネート、主演男優賞(ポール・ムニ)・脚色賞(ピエール・コリングス、シェリダン・ギブニー)・原案賞 (ピエール・コリングス、シェリダン・ギブニー)受賞、ヴェネチア国際映画祭最優秀男優賞受賞(ポール・ムニ)/日本公開昭和11年10月(1936/10)

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(キネマ旬報近着外国映画紹介より)
ジャンル 伝記
製作会社 ファースト・ナショナル映画
配給 ユニヴァーサル支社輸入
[ 解説 ] 「黒地獄」「ギャングの家」に次ぐポール・ムニ主演映画で、「 ギャングの家」「真夏の夜の夢」と同じくウィリアム・ディターレが監督にあたったもの。脚本はルイ・バスツールの伝記に基づいて「異人種の争闘」のシェリダン・ギブニーがピエール・コリングスと協力して執筆した。助演者は「支那ランプの石油」「忘れじの歌」のジョセフィン・ハッチンスン「真夏の夜の夢」「ロマンス乾杯」のアニタ・ルイズ、「ギャングの家」のレイモンド・ブラウン及びヘンリー・オニール、新顔のドナルド・ウッズおよびフリッツ・ライバー、ボーダー・ホール、子役ディッキー・ムーア等である。カメラは「小さい親分」「ギャングの家」のトニー・ゴーディオが受け持っている。
[ あらすじ ] 葡萄酒およびビールの貯蔵法を発見したフランスの科学者ルイ・ パスツール(ポール・ムニ)は、産褥熱のために産婦死亡が多いのを嘆き、医者の助産の際に、手と器具とを消毒すべし、とのパンフレットを出した。たまたま、産褥熱のために妻を失った男が、医者を殺した。パスツールナポレオン3世(ウォルター・キングスフォード)と皇后(イフィジニー・キャステリオーニ)の前に喚問され侍医頭シャルボンネ(フリッツ・ライバー)の査問を受け、パリ追放を命ぜられた。普仏戦争の結果、フランスは共和国となりチエール(ハーバート・コーセル)が初代大統領となった。フランスはプロシヤに50億フランの賠償金を払わねばならぬ。しかも炭疽病が流行して牛と羊が少なからず斃死するありさまだった。ところが、アルボアだけでは家畜が健全だった。大統領はラディス(レイモンド・ブラウン)、マルテル(ドナルド・ウッズ)の二医師を派して調査させる。すると、パスツール炭疽病の病原菌を発見し、血清を作ってアルボアの家畜に予防法を施していることが判った。ラディスは細菌の存在を信じず、アルボアが炭疽病の免疫地だと勝手に決める。若いマルテルはパスツールの娘アネット(アニタ・ルイズ)と恋仲となり、パスツール信者となった。その結果、シャルボンネの発議で実験が行われた。50頭の羊をアルボアに送り、15頭に血清を注射し、15頭をそのまま放置した。結果はパスツールの勝利でイギリスのリスター(ハリウェル・ホッブス)も実験を見に来て賞賛した。パスツールはその後狂犬病治療法を発見すべく助手のルウ医師(ヘンリー・オニール)およびアネットの婿となったマルテル医師と共に日夜研究に没頭した。苦心の末、病犬の唾液から採った毒液の培養に成功したが、病原菌を発見することが出来ず、焦慮していた。併しパスツールは病原菌の存在を信じて疑わず、この旨を医学協会雑誌に発表した。それは三度シャルボンネの反対に遭った。シャルボンネは、常時狂犬病の流行したロシアから来たザラノフ(エイキム・タミロフ)と共にパスツールの研究所に来て、菌の存在せざる事を立証すると稱し、パスツールの培養液を自らの腕に注射した。それを注射すれば24時間以内に死ぬ、とパスツールは言明したのだった。ところがシャルボンネは依然健康で、パスツールを詐欺師と嘲笑した。が、これこそパスツールには天啓だった。シャルボンネが注射した溶液は、狂犬から採取後約二週間を経たものだった。古い溶液は毒性が希薄なのだ。しからば古い溶液の注射で、病毒に対する抵抗力を培うことが出来るはずだ。パスツールは動物試験の結果これを実証した。そしてアルサスから狂犬に噛まれて治療を乞いに来たジョセフ少年(ディッキー・ムーア)に実験した。その結果は不明で、パスツールは病床に日夜つききりだった。その時娘アネットが産気づき、あらゆる医師が都合悪く、シャルボンネに頼むほかはない。シャルボンネは、病原菌説は虚妄なり、との声明書に署名するなら助産してやる、という。パスツールは署名した。アネットは無事安産した。そして狂犬病の少年も快癒した。シャルボンネはかの声明書を破棄した。そしてパスツールはレジョン・ドヌール勲章を受けた。

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「血清療法の発見者ルイ・パスツールの伝記を巧みなシナリオに構成し、ウィリアム・ディターレの監督で、ポール・ムニが好演を示した。アメリカには珍しく渋みのある重厚な作品である。(昭和一一・一〇・一、日本劇場)」と『日本映画発達史・II』にあり、『映畫作品辭典』では「細菌の存在を一笑に附する旧弊な医学の偏見と圧迫の中に、数数の病原菌を発見し、炭疽病や狂犬病の免疫血清の製作に成功したフランスの偉大な化学者ルイ・パストゥールの伝記映画。ウィリアム・ディターレの真面目な演出は、パストゥールの不屈の研究心と責任感をよく描破し、その後の『ゾラの生涯』『偉人エーリッヒ博士』など一連の偉人伝記映画の道を開いた。ポール・ムニ主演。」と筈見氏にしては最上級の讃辞を捧げています。『日本映画発達史』によると本作公開の昭和11年秋公開の外国映画の話題作には他に『来るべき世界』『地の果てを行く』『化石の森』『丘の一本松』『罪と罰』『将軍暁に死す』『ゴルゴタの丘』があり、内務省による外国映画の輸入統制が施行され始めたのも昭和11年秋からだったそうです。本作はディターレの次の伝記映画『ゾラの生涯』'37と双璧をなす傑作で、ドイツからの移民監督ディターレウクライナ移民の主演俳優ポール・ムニの怒りが作品を裏打ちしています。『ゾラの生涯』公開時の新聞記事にはディターレアメリカ映画界の監督たちへの呼びかけが引用されているそうですが(筈見有弘アメリカ映画史』キネマ旬報社・昭和50年)、それは「観客をライオンのようにしろ!彼らの心をすみやかにとらえろ。彼らをごまかし偽ってはならない」と激越なものです。「観客をライオンのようにしろ」とは日本語には馴染まない表現ですが、観客を鼓舞し勇猛果敢な気分にさせる映画を作れ、という意味でしょう。ディターレに遅れて渡米してきた同じドイツ出身のフリッツ・ラングもハリウッド第1作・第2作は怒りに満ちた『激怒』'36、『暗黒街の弾痕』'37で始まり、対をなす大傑作『飾窓の女』'44、『スカーレット・ストリート』'45を経てハリウッドでの最終作になる『口紅殺人事件』'56、『条理ある疑いの彼方に』'56まで20年間怒りを持続させ続けました。ただラングは主に犯罪スリラーで意地の悪い映画を作り続けたので同時代のアメリカでは一介の娯楽映画監督と見られ、アメリカ国外の批評家・観客からの評価の方が高かったのです。ディターレの謳い上げる正義感は題材こそ外国種とは言え直球でした。ハリウッド映画がアメリカの反体制的人物を描けるようになるのはもっと後ですし(犯罪映画や西部劇が屈折した形で体制批判を描く例はありました)、パスツールやゾラの生涯をアメリカ人受けするヒロイズムに置き換えた理想主義にはやや眉唾がつく面がありますし、この理想化は当時現存だった遺族や関係者からは不服はなかったようですがパスツールやゾラ本人たちにしてみればこんな綺麗事ではなかったのは明らかでしょう。つまり責任感や正義感、理想主義を体現する人物を描く目的は達成されていますがそうした人格を形成した人間の魂や生活感はあえて描出を避けて成り立っている映画であって、精神高揚的効果のために俗なものを切り捨ててしまったのがかえって映画を通俗的な次元に留めている、という不満があります。ただし孤独な理想主義者の信念と無理解な世間との闘いに主題を収斂させて、マス・ヒステリーに近い社会的反応を映像で克明に見せるのは、長々とした伝記記述よりも強烈無比な説得力があり、素朴な再現性に効果を絞ったにすぎないとするにせよ個人の主張を圧殺しようとする国家権力そのものをダイナミックに描いてみせたのは青年時代に母国ドイツの敗戦を体験し、渡米前にファシズムの興隆を見てきたディターレならではの危機感が反映した国家観であって、アメリカ大衆にとっては19世紀フランスを描いたものであってもこうした国家の描かれ方は当時ショックを伴なって受け止められたと思われます。むしろアメリカのように建て前は個人の尊厳と自由を謳っている社会ほどディターレの描いたような偽善的で狭隘な民主主義国家の実像は衝撃力があったでしょう。本作を勧善懲悪映画に過ぎないと言えばそれまでですが、この勧善懲悪はこの場合パスツールを通して当時ヨーロッパ世界でも有数の文明国だったフランスの社会と時代を丸ごと描く規模の大きさがあり、訴求力の強い社会劇として伝記映画を作り上げたのは一見何でもないようでいてディターレ独自の発明だったと言えます。それまでの伝記映画、例えばグリフィスの『世界の英雄』'30などはリンカーンの生涯を描きたいのか当時のアメリカ史を描きたいのか焦点がはっきりしないのです。本作や『ゾラの生涯』を作ったディターレ自身が第2次世界大戦後のマッカーシズムの社会的暴力によってアメリカからイタリアへ亡命せざるを得なくなるのですから、歴史とは皮肉かつ残酷なものです。