人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年5月30日・31日/B級西部劇の雄!バッド・ベティカー(1916-2001)監督作品(8)

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 今回でバッド・ベティカー監督作品のご紹介はひとまず終わりで、ベティカーは'44年の監督デビュー(それ以前にコロンビアで60分強の中編戦争映画が'42年、'44年にノンクレジットながらあり)からコロンビアにB級フィルム・ノワール5作、インディー・プロのイーグル・ライオンにB級映画2作、やはりインディーのモノグラムのB級怪奇映画3作を経てジョン・ウェインのバトジャック・プロで初のベティカー自身の原案のメキシコ・ロケの闘牛メロドラマ『美女と闘牛士』'51を作り、同作が日本初公開のベティカー作品になりました。'52年~'53年のユニヴァーサル時代には9作中『シマロン・キッド』'52を始めとする西部劇6作・戦争映画1作をこの感想文でご紹介し、ほか2作のSF海洋アドベンチャー作品があります。フリーになったベティカーは'55年には20世紀フォックスアンソニー・クインモーリーン・オハラ主演のメキシコ・ロケの闘牛メロドラマ『灼熱の勇者』を作り、同作がベティカー2作目の日本公開作品になりました。'56年には再びバトジャック・プロでランドルフ・スコット主演の『七人の無頼漢』を作り、同年にはジョセフ・コットン主演のフィルム・ノワール『殺し屋は放たれた』も作りますが(インディーのクラウン・プロ製作、ユナイテッド・アーティスツ配給)、『七人の無頼漢』の出来に満足したスコットがプロデューサーのハリー・ジョー・ブラウンと立ち上げた製作プロ、プロデーサーズ&アクターズ・カンパニーは同作のシリーズ化をもくろみ、ベティカー監督、バート・ケネディ脚本で『反撃の銃弾』'57を作ります。つづく2作『ディシジョン・アット・サンダウン(日没の決断)』'57、『ブキャナン・ライズ・アローン(ブキャナン馬に乗る)』'58では脚本はチャールズ・ラングが担当しましたが、プロダクション名をラナウン・ピクチャーズと改名した『ライド・ロンサム(孤独に馬を走らせろ)』'59ではケネディが脚本に復帰し、同年のワーナー企画・製作作『決斗ウエストバウンド』は本来シリーズではないものの主演のスコットの要望でベティカーが監督に起用され(おそらく『ライド・ロンサム』で好演したヒロインのカレン・スティールも)、後世では『七人の無頼漢』以降のベティカー&スコット連作に含められる人気作になります。ラナウン・ピクチャーズ作品は今回ご紹介する『決闘コマンチ砦』'60が最終作となり、ベティカー自身も同年末公開のワーナー配給の実話ギャング映画(インディーのユナイテッド・ステイツ・ピクチャーズ製作)『暗黒街の帝王レッグス・ダイヤモンド』を最後に映画からテレビドラマの演出に移ってしまいます。テレビ演出の仕事も減り、経済的な苦境にあったベティカーにひさびさに映画製作を持ちかけたのは『シマロン・キッド』に主演したオーディ・マーフィで、マーフィとベティカーは独立プロを立ち上げ『今は死ぬ時だ』'69を製作しましたが、同作は契約上の法的問題で公開がこじれ、以降逝去まで30年あまりベティカーは映画監督の機会を得なかったので、それが遺作になりました。ベティカー作品30作あまりのうち初期作品を除いた'52年の西部劇第1作『シマロン・キッド』から奇しくもまたオーディ・マーフィ絡みの監督作品最終作(遺作)『今は死ぬ時だ』まで、西部劇は逃さず主要な作品は今回までの8回・16作でご紹介できたことになります。前回の『ライド・ロンサム』『決斗ウエストバウンド』につづいて、最終回の今回の2作も非常に充実した作品で、ベティカー作品はあとになるほど良くなるのが確かめられるだけに、早い監督キャリアの行き詰まりが惜しまれまれます。しかしそれもベティカーらしい尻すぼみの終わり方かと思えもするのです。

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●5月30日(木)
『決闘コマンチ砦』Comanche Station (ラナウン・ピクチャーズ=コロンビア'60.Mar.1)*73min, Eastmancolor, Widescreen : 日本公開昭和37年('62年)10月6日 : https://youtu.be/AbfeshoB9mw (Trailer)

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 これは素晴らしい!『七人の無頼漢』から、というか今回はベティカーの西部劇第1作『シマロン・キッド』から順を追って観直してきたからこそなおさら胸に迫るのかもしれませんが、『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』から始まったシリーズの最終作が内容・仕上がりともにこの『決闘コマンチ砦』に極まったのは製作のハリー・ジョー・ブラウン、監督のベティカーに主演のスコット、何より原案・脚本のバート・ケネディが最後はこれでなければ、とベティカーとスコットに最高の腕の振るいがいのあるアイディアを提供したからこそと思われ、『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』『ライド・ロンサム』に並ぶ「ラナウン・サイクル」連作中最高の1編になっています。チャールズ・ラング脚本の『ディシジョン・アット・サンダウン』『ブキャナン・ライズ・アローン』がやや落ち、ノンクレジットでケネディが脚本に協力した『ブキャナン~』の方が明らかに良く(『ディシジョン~』も異色作なりの見所はありますが)、ワーナー企画・製作でブラウンもケネディも関わりがない『決斗ウエストバウンド』がスコットによるベティカー起用(また『ライド・ロンサム』のヒロイン、カレン・スティール起用)で好調なシリーズ作の勢いを受けた佳作になったのもケネディの関与がいかにベティカー&スコット映画の出来ばえを左右したかを逆に明かすものだったと言えて、プロデーサーズ&アクターズ・カンパニー改めラナウン・ピクチャーズはブラウンとスコットの会社かつベティカーを専属監督としており、本作はこれでシリーズは幕引きになるからそれにふさわしいものを、というリクエストが原案・脚本家のケネディに与えられたのでしょう。不参加の作品もあったとはいえ第1作の『七人の無頼漢』の原案・脚本家であり、そのシリーズ化『反撃の銃弾』の脚本家でもあったバート・ケネディには途中のチャールズ・ラング脚本作ともども含むシリーズ有終の美を飾る作品、という意気込みがなかったわけはないでしょう。本作ではスコットは捜索者型てもあれば巻きこまれ型でもある主人公であり、スコットがコマンチ族から救出した人妻はスコットと匹敵する役割で、シリーズ中でももっともヒロインが活躍する作品になっています。集団として登場してくるコマンチ族以外は結末のヒロインの帰還までドラマは悪党とその2人の部下だけで進み、悪党は悪辣ですが部下の2人はコマンチ族にさらわれた人妻救出・護送に雇われただけで(先にスコットが救出していたのですが)、一方悪党本人の企みはヒロインの夫からの懸賞金が生死問わずであるためスコットもヒロインも始末して遺品だけ持って帰るつもりでいる。ベティカー西部劇、特に「ラナウン・サイクル」連作が一般的な西部劇より西部劇らしさが充満していて、荒涼(またはかりそめの平和然)とした西部の情景→主人公と人妻(または未亡人か訳あり女)との出会い→さらに悪党が加わる→そしてドロドロの死闘へ、と殺伐としたムードの展開がパターンとして指摘されるのは最終作の本作がまさにその理想的な完成型を示しているからです。しかも「ラナウン・サイクル」連作からさかのぼってベティカー西部劇を振り返ってみれば西部劇第1作『シマロン・キッド』からこのパターンの原型は出ていて(それまでのノンクレジット戦争映画2作、フィルム・ノワールや怪奇映画10作の初期作品にもあるかもしれませんが、全部観ていないので一応ユニヴァーサル時代以降の西部劇作品に限定します)、それを意識的に構成したのがジョン・ウェインのバトジャック・プロのブレインで『七人の無頼漢』の原案・脚本家バート・ケネディの功績だったのが浮かんできます。「ラナウン・サイクル」連作でも本作はもっとも明快な構成・展開で最小限の登場人物に絞り、コマンチ砦からローズバーグの町までの道中記と全編が屋外の西部の荒野が舞台となる映画です。主人公スコットのキャラクターも重みと悲しみの深いもので、道中でスコットとヒロイン以外は何らかの形で殺されてしまいますし、結末でスコットは懸賞金すら受け取らず黙って再び荒野に帰っていくのですが、哀切ながら爽やかな後味が残る点でもシリーズ中最高の感銘深い作品になっており、「ラナウン・サイクル」連作は『七人の無頼漢』か『反撃の銃弾』から観るのが完成度や画期性でも良いと思いますが、最高傑作は本作ではないかと観直してしみじみ感動を噛みしめました。本作のナンシー・ゲイツはベティカー西部劇でもっとも魅力的で意志的、かつスコットの魅力を相殺せずたがいの魅力を引き立てあっている女性キャラクターで、本作に次ぐのが『今は死ぬ時だ』のヒロインですが、同作は本作とはがらりと趣向の異なる作品です。『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』にせよ『決斗ウエストバウンド』や本作にせよアメリカ本国公開から間もなく日本公開されているのに、日本では戦後西部劇の名作とされなかったのは2本立て用B級西部劇だったからですが、『真昼の決闘』や『シェーン』に『七人の無頼漢』や本作が劣るとは思えません。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より)「イエローストン砦」のバート・ケネディの原作を「最後の酋長」の監督バット・ボーティカーが脚色し監督した西部劇。撮影は「恋愛専科」のチャールズ・ロートン・ジュニア、音楽はミッシャ・バカライニコフ。出演者は「昼下りの決斗」のランドルフ・スコット、「早射ち2連銃」のスキップ・ホメイヤー、「ブラック・ゴールド」のクロード・エイキンズ、ナンシー・ゲイツなど。
○あらすじ(同上) 10年前に妻をコマンチ族に奪われたコディー(ランドルフ・スコット)は、コマンチ集落で白人の女が交換所に出ていると聞くと、妻を求めてどこへでも出かけて行った。あるコマンチ集落で彼は5ドルの品物と連発銃1機と交換に、白人の女ナンシー・ロウ(ナンシー・ゲイツ)を救けた。コディーは彼女をローズバーグの夫の許に送るため、一緒にローズバーグに向った。ここで2人は彼女を探している3人の男、首領格のベン・レーン(クロード・エイキンズ)、フランク(スキップ・ホメイヤー)、年少のドビー(リチャード・ラスト)に会った。ナンシーには、夫からその生死に拘らず連れ戻った者に5千ドルの賞金が懸けられていたからだ。ベンは残忍な男で、軍隊にいた頃、無意味にインディアンを殺してコディーから告発され、隊を追われたのでコディーを怨んでいた。あとの2人はベンに雇われたのだ。ベンはコディーを殺してナンシーを奪い、彼女が口を割るのを防ぐため、彼女も殺して5千ドルを手に入れるつもりだった。ローズバーグ迄は凶悪なコマンチ族が出没する危険な荒野で、3人の悪党とコマンチの襲撃から、ナンシーを守って無事送り届けるのは非常に困難な事だった。コディーはナンシーと出発したが、3人は彼らの命を狙い続けた。ナンシーは初めコディーが自分を助けたのは金のためだと思っていたが真意を知るにつれ、彼に好意を持つようになった。途中コマンチ族の待伏せでフランクは殺された。コディーに好意を感じ出したドビーはベンの計画をコディーに告げようとしてベンに殺された。ベンはコディーに殺された。ナンシーを夫(ダイク・ジョンソン)の許に送り届け、喜ぶ2人を見て、彼は再び妻を探すために去って行くのだった。
 ――本作はカリフォルニアのローンパイン近くの、ホイットニー山脈の麓からそれほど遠くない、中央カリフォルニアのシエラ地域東部でロケされました。『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』では全面的な舞台だった、アラバマヒルズとして知られる岩山地帯は、オープニングとクロージング・シーンの背景になっています。冒頭から包みを連れた騾馬に乗せたスコットが馬から下りると周囲の岩山をモヒカン刈りのコマンチ族に囲まれる。スコットは包みを広げて反物を並べてジェスチャーし、スコットが立ち上がると集団のリーダーの投げた槍が広げた反物の中央に刺さります。コマンチ族部落に連れて行かれたスコットは族長と交渉し、ライフルを一挺置いて交渉は成立します。コマンチ族は白人の女(ナンシー・ゲイツ)をひとりスコットに引き渡し、スコットは無言で女を騾馬に乗せ部族から去ります。スコットとゲイツは名乗りあい、ゲイツは夫から頼まれたのかコマンチ族に女を買いに来たのか訊きますが、スコットはどちらでもないと答え、ゲイツにローズバーグの家族のもとまで送り届けると約束しますが、ゲイツは疑心暗鬼です。すぐに2人はスコットが軍人だった頃無意味なインディアン殺しで追放した無法者のクロード・エイキンズと、エイキンズに雇われたカウボーイのスキップ・ホメイヤー、リチャード・ラストの3人と出会い、ゲイツはエイキンズが賞金稼ぎでゲイツの夫がコマンチ族にさらわれた妻の捜索に「生死を問わず」5,000ドルの懸賞金をかけていると知るので、あんたも賞金稼ぎだったのねとスコットを見るようになる。コマンチ族の襲撃を退けてローズバーグまで到着するには俺たちの協力が必要だろうとエイキンズたち3人も同行することになりますが、実はエイキンズはもともと怨恨を抱いているスコットを殺害して賞金を独占し「生死問わず」だからゲイツも殺害して遺体か遺品だけ持ち帰る気でいる。ホメイヤーとまだ少年のラストはエイキンズの目論見に躊躇しています。コマンチ族の襲撃は断続的に続き、ある朝ゲイツが池で顔を洗っていると矢で殺されたホメイヤーの死体が漂ってくる。ラストは池に踏みこみ兄貴分の死に愕然としますが、すぐ出発しようと遺体を池に置き去りに急かされ、夜間すらおちおちしていられない。夜番に構えていたラストにゲイツが話しかけ、スコットの素性を尋ねます。ラストはスコットと会ったのは初めてだがコマンチ族に奥さんをさらわれて供物を持ってはコマンチ族に幽閉された白人女性たちを捜してくる、もうずっと長いことそうしているが奥さんにはめぐり合えないのでスコットの妻は死んでるんじゃないかと噂されているがスコットはコマンチ族との交渉を止めない、エイキンズには雇われているがスコットは好きだ、とゲイツに話し、ゲイツはスコットへの疑念を恥じます。またラストはエイキンズの目論見をゲイツに話したので、翌日ゲイツはスコットに謝罪しますが妻の誘拐は10年前のことだ、と話し、エイキンズとラストを追放する。なおも逆転を狙うエイキンズにラストはエイキンズにもうあんたの手下は止めた、と去ろうとし、エイキンズにお前スコットたちに裏切ったな、と背後からラストを射殺します。銃声を聞いて立ち止まったスコットとゲイツは暴れ馬に引きずられるラストの遺骸を確認し、ゲイツの援護とともにエイキンズと対決して倒します(このエイキンズ追放から対決が冒頭のコマンチ族の包囲とともにアラバマヒルズが舞台です)。ローズバーグの町につき、ママ、とゲイツの幼い息子が家から飛び出してくる。ゲイツが息子を抱きしめると、ナンシーか、と杖をつき盲目のゲイツの夫(ダイク・ジョンソン)が足を引きずりながら戸口から出てくる。夫の手をとったゲイツがスコットを振り向くと、スコットは無言で何も言うな、という仕草をします。このジェスチャーの意味がわかならい観客はいないでしょう。そして再びコマンチ砦へ向かう荒野に去っていくスコットの後ろ姿の騎馬姿のロングのショットがラスト・ショットで、エンド・マークが重なります。懸賞金すらスコットは受け取る気はないので、この爽やかで哀切なエンディングはどうでしょう。スコット以外ノン・スター、オール・ロケの西部の荒野の道中記映画ながらゲイツのヒロイン像、スコットの孤独で絶望的な捜索者像(しかもエイキンズたちの登場で巻きこまれ型のシチュエーションにもなります)は鮮烈で、一度観たら忘れられないシーン、ショットがいくつもあります。連作の累積の上にたどり着いた到達点ですから本作は先立つ連作を数作観てからこそなお真の感動が味わえると思えるのでファースト・チョイスには向きませんが、おそらく連作7作すべてご覧の方には本作こそ最高傑作という讃辞にご同意いただけるのではないでしょうか。

●5月31日(金)
『今は死ぬ時だ』A Time for Dying (FIPCO'69)*67min, Eastmancolor, Standard : 日本劇場未公開 : https://youtu.be/scbj-TereaA (Full Movie) : https://youtu.be/AiSJhmnsQjk (Trailer)

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 一応本作のあとにもベティカーは闘牛ドキュメンタリー『Arruza』'71、ロバート・スタック(かつて『美女と闘牛士』に主演)夫妻とベティカー夫妻がポルトガル馬術競技とメキシコ闘牛の関連を取材するドキュメンタリー『My Kingdom For...』'85の製作・監督をしているのですが、劇映画の監督はこの『今は死ぬ時だ』以降はなく、ドキュメンタリー作品2作も20代にメキシコでプロ闘牛士の経験があったベティカーのプライヴェート・フィルム的なものなので、本作をベティカー最後の劇場用映画監督作で遺作となったもの、と見なすのが一般的な見方です。前書きの通りベティカー西部劇第1作『シマロン・キッド』'52で主演したオーディ・マーフィの共同プロデュース、マーフィ助演と14作あるベティカー西部劇の最初と最後がマーフィとの作品になったのは決して現役時代に一流監督都は見なされなかったB級西部劇監督のベティカーにとって運命的な因縁すら感じられます。本作はベティカー西部劇からさらに'60年代以降の西部劇に進んだ後進のサム・ペキンパー、またイタリア西部劇のセルジオ・レオーネらベティカー自身が影響を与えた監督たちの映画に本家ベティカーが挑んだような作品で、冒頭のドキュメンタリー的な平原でウサギを狙う蛇の映像、蛇を仕留めてウサギを逃がす主人公の登場からいかにも'60年代映画らしい爽やかな音楽が流れますが、平原のロケの明るい陽光の映像にもかかわらず全編はじめじめした雰囲気が漂い、クライマックスのスローモーション映像の対決から映画のエンディングまではまるでベティカー自身やペキンパー、レオーネ作品のセルフ・パロディのような奇妙な後味まで残る異色作で、本作の場合はそういう異色作として妙に感慨の残るのがこれが事実上の遺作ということもあって忘れがたい作品になっている。もともとピーター・フォンダ主演で企画された通り本作は青春西部劇であり、'60年後半のアメリカン・ニューシネマの潮流に乗ったバッドエンド・ドラマであり、アメリカン・ニューシネマ自体が伝統的なアメリカ映画のパターンの意図的なパロディでもあったのですが、パロディの裏打ちとなるポップ・アート感覚とも青春映画とも無縁な、むしろ武骨でランドルフ・スコットのようにくたびれかけた初老俳優を主人公にして金字塔たる「ラナウン・サイクル」連作で最高の達成を見せたベティカーの遺作がアメリカン・ニューシネマ風バッドエンド青春西部劇というのは冷や水というもので、ベティカー映画らしい西部劇世界をぶち壊したら壊れ方もまたベティカーらしいものになってしまった。しかもタイトルが『今は死ぬ時だ(A Time for Dying=死ぬまでの時間)』とは、ベティカー自身はマーフィとともに立ち上げた独立プロで本作を皮きりに復帰を期していたそうですから笑うに笑えません。版権上の問題が起きニューヨークでは1982年まで公開されずアメリカ国内ではほとんど配給されずイタリアを始めヨーロッパに売りこまれたというのも泣ける話で、アメリカでもこの2019年1月に初DVD化されたばかり、と本作の本格的評価はまだまだこれからと言えるでしょう。英語版ウィキペディアの解説を引いておきます。
○解説(英語版ウィキペディアより) 製作オーディ・マーフィ、監督・脚本バッド・ベティカー、撮影ルシアン・バラード、音楽ハリー・ベッツ、編集ハリー・ナップ、製作会社 : FIPCOによる本作はベティカーの最後の映画になりました。オーディ・マーフィの活動は本作製作当時不調で、1968年には出演映画はありませんでした。『シマロン・キッド』でマーフィを監督したベティカーも、経済的な窮迫状態に陥っていました。二人は映画を作るために共同の製作プロダクション、FIPCO(First International Planning Company)を設立し、本作はその最初の作品で、以降も映画製作が行われる予定でした。『今は死ぬ時だ(A Time for Dying=死ぬまでの時間)』は、もともとピーター・フォンダ主演に企画されました。撮影は1969年4月と5月にツーソン近郊のアパッチランド映画牧場で行われました。資金は極端な低予算で、撮影完了までに映画は脚本よりも数分短くなりました。マーフィは1年半をかけて完成とポストプロダクションのために追加資金を集めることを試みました。マーフィーの2人の息子が映画の中で小さな役割で登場し、マーフィーの長年のエージェント、ウィラード・ウィリンガムはフランク・ジェームズを演じました。しかし本作は契約上の問題により、ニューヨークでは1982年まで上映されませんでした。
○あらすじ(同上) 農場で働く少年、キャス・バニング(リチャード・ラップ)は射撃が特技でしたが、野原で射撃練習中に通りかかった無法者ビリー・ピンプル(ボブ・ランダム)たちの噂で聞いて訪れた売春宿で​​、ウェイトレスの仕事と斡旋されて馬車で西部にやってきたばかりの、東部からの素朴な女性ネリー(アン・ランドール)と出会います。キャスは即座にネリーを連れて脱走しますが、2人は逮捕されロイ・ビーン判事(ヴィクター・ジョリー)によって結婚を強いられます。キャスは賞金稼ぎになろうと決めます。キャスは、平原で練習中にキャスの射撃の腕前に目をつけたジェシー・ジェームズ(オーディ・マーフィ)と知り合い強盗団に誘われますが、キャスは賞金稼ぎの仕事を始めます。しかしキャスは先制攻撃を仕掛けてきたお尋ね者のピンプルに銃撃戦で殺され、夫の死に心神喪失したネリーは売春宿のおかみ(エイミー・アンダーソン)に店の宿舎に迎えられます。
 ――映画はヒロインが「農場へ戻って……彼のお父さんに知らせなきゃ……」とつぶやきながら眠りに落ち、店の前ではまた馬車で着いた新しい女性が売春宿の扉に入っていく路上の場面で、ヒロインが売春宿から抜け出せることは決してないのを暗示して終わります。主人公がウェイトレスと騙されて新人の女の子が次々雇われてくんだぜ、と冒頭で聞くのも「何で蛇は撃つのにウサギは撃たないんだ?」と通りかかった無法者のピンプルたちに正義漢気取りか?とからかわれたついでですし、主人公は本当にそうか売春宿のバーに確かめに行って馬車で着いたヒロインを躊躇なく助け出して農場近くの平原で事情を話し、明日には東部に帰れよとヒロインとホテルに泊まります。翌朝真っ先に保安官一行が部屋に乗りこんできて二人(主人公は床の上で寝ていましたが)はロイ・ビーン判事に裁判にかけられるので、先に判決が済んだ件を待って判事は二人をその場で結婚させて釈放する。二人が裁判所を出ようとするとすぐ前に判決を受けた男が裁判所の前の平原で絞首刑にされている、といった具合で、平原で寝泊まりし農場に連れて行くうちに主人公とヒロインの間に愛が芽生えます。この辺は青春映画として美しい自然描写とともに非常に可憐で、描かれる西部もまだ緑の豊かな農村地帯です。主人公は本腰を入れて結婚生活に入るには射撃の腕前を生かせる仕事はないかと平原で射撃訓練に励み、ヒロインは危険な仕事は止めてと反対するも主人公は農場の仕事だけでは妻を養えない、と反論します。射撃練習中に3人組の男が通りかかり、オーディ・マーフィ演じる男がお前の腕前ならいつでも仕事をくれてやるよ、と主人公を誘う。あんたたちは誰何だ、と主人公が訊くとマーフィはあっちが兄のフランク、こっちが仲間のベン、俺はジェシーだ、と答えて去り、主人公はジェシー・ジェームズとの対面に唖然とします。無法者にはならない、賞金稼ぎになろうと決意を決めた主人公はヒロインと町に出かけ、ダンスホールでロイ・ビーン判事のパーティーに混じっているうちに無法者ピンプルの凶行と賞金手配の緊急告知を知ります。その時が来た、と夜の街路に出て乗馬しようとした主人公をいきなり現れたピンプルが狙撃し、主人公は二挺拳銃を抜きますが両手とも拳銃を取り落としてしまい一方的に撃たれる。主人公が蛇は撃つがウサギは撃たない性格なのが冒頭のピンプルとの出会いから暗示されているのは主人公が無法者のピンプルすら実は撃てない性格だったからで、このシーンは主人公、ピンプルともスローモーション映像で描かれています。ヒロインは倒れた夫に取りすがり、ダンスしていた客たちも出てきて取り巻きますが、なおも馬で突っ切ってきたピンプルが至近距離から主人公にライフルでとどめの一発を撃って去って行く。隣りの売春宿から出てきたおかみが茫然自失したヒロインにかわいそうに、おいでと肩を抱いて売春宿に招き入れ、ヒロインは「彼のお父さんに知らせなきゃ……農場へ帰らなきゃ……」とつぶやきますが、おかみはこれで良かったんだよ、何もかも元通りだよ、と宿の寝室に寝かされます。ベティカー自身のオリジナル単独脚本の本作はピーター・フォンダ主演が想定されていたため基本的には青春映画なのに結局フォンダ主演がかなわなかったためロイ・ビーン判事役のピート・ジョリー(とカメオ出演のマーフィ)くらいしか知名度のある俳優がいないノン・スター映画になり、またイタリア、フランス公開題から日本未公開ながら『今は死ぬ時だ』と邦題が定着していますが、原題の『A Time for Dying』は「今は死ぬ時だ」と「死ぬまでの時間」の両方のニュアンスがあるので、青春映画ならば主人公とヒロインとのあまりに短い蜜月を描いた映画とも言えます。西部劇にスローモーションを導入したのは、ジャン・ヴィゴの『新学期・操行ゼロ』'33のアメリカ公開にインスパイアされたアーサー・ペンの『左きゝの拳銃』'58という説がありますが、'60年代にはイタリア製西部劇から日活アクション映画まで常套手段になっています。本作の主人公はジェシー・ジェームズの強盗団どころか賞金稼ぎにもなれない青年なので、凶悪な童顔あばた面の無法者ピンプル(ピンプルはにきび、あばたですから通り名でしょう)に一方的に殺されてしまう。主人公らしい活躍は映画序盤のヒロイン救出だけだったとしか言えないので、クライマックスの対決とも言えない対決は製作事情からのシナリオ短縮が原因と思える性急さも感じられます。しかしこの67分という短さも本作ではあっという間に終わってしまった感慨をもたらすので、白鳥の歌らしい刹那感の印象につながっている。ベティカーの傑作は『七人の無頼漢』『反撃の銃弾』『決闘コマンチ砦』でしょうが、案外最初に観るベティカーが本作でもいいではないかと思えてくるのです。