『禁じられた遊び』Jeux interdits (Silver Films=Les Films Corona, 1952)*87min, B/W : 1952年5月9日フランス公開
監督:ルネ・クレマン(1913-1996)、主演:ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリイ
・第二次大戦下の南仏、幼いポーレットは両親と愛犬を失う。以来、彼女は墓を飾る十字架を盗むようになり、大騒動を巻き起こしてしまう。N・イエペスの主題曲も有名な傑作。第25回アカデミー賞で名誉賞を受賞。
[ 解説 ]「ガラスの城」のルネ・クレマンが監督した一九五二年作品。戦争孤児になった一少女と農家の少年の純心な交情を描くフランソワ・ボワイエの原作小説を「肉体の悪魔」のコンビ、ジャン・オーランシュとピエール・ボスト、それにクレマンが共同で脚色した。台詞はオーランシュ、ボスト、原作者ボワイエの三人。撮影は「ドイツ零年」のロベール・ジュイヤール、音楽はナルシソ・イープスの担当。出演者はクレマンが見出したブリジット・フォッセーとジョルジュ・プージュリーの二人の子役を中心に、リュシアン・ユベール、スザンヌ・クールタル、ジャック・マラン、ローレンス・バディら無名の人たち。なおこの作品は五二年のヴェニス映画祭のグランプリとアカデミー外国映画賞を受賞した。2018年9月1日より2Kデジタル版(日本語字幕新訳)を上映(配給:パンドラ)。
[ あらすじ ] 一九四〇年六月のフランス。パリは独軍の手におち、田舎道を南へ急ぐ難民の群にもナチの爆撃機は襲いかかって来た。五歳の少女ポーレット(ブリジット・フォッセー)は、機銃掃射に両親を奪われ、死んだ小犬を抱いたままひとりぼっちになってしまった。彼女は難民の列からはなれてさ迷ううち、牛を追って来た農家の少年ミシェル(ジョルジュ・プージュリー)に出会った。彼は十歳になるドレ家の末っ子で、ポーレットの不幸に同情して自分の家へ連れ帰った。ドレ(リュシアン・ユベール、スザンヌ・クールタル)家では丁度長男のジョルジュ(ジャック・マラン)が牛に蹴られて重傷を負い、大騒ぎしているところだった。ポーレットはミシェルから死んだものは土に埋めるということを始めて知り、廃屋になった水車小屋の中に彼女の小犬を埋め十字架を立てた。墓に十字架が必要なことを知ったのも彼女にとって新知識であり、以来彼女はこのお墓あそびがすっかり気に入ってしまった。ジョルジュは容態が悪化して急死した。そのとき、隣家のグーアル(アンドレ・ワスリー)の息子フランシス(アメデー)が軍隊を脱走して帰って来た。グーアル家とドレ家は犬猿の仲だったが、フランシスとドレの娘ベルト(ローレンス・バディ)とは恋仲であった。ジョルジュの葬式の日、ドレは葬式馬車の十字架がなくなったことに気づいたが、これはミシェルがポーレットを喜ばすために盗んだのだった。ミシェルは更に教会の十字架を盗もうとして司祭(ルイ・サンテーブ)にみつかり、大叱言を喰った。しかしミシェルとポーレットはとうとう教会の墓地まで出かけて、たくさんの十字架を持ち出した。ジョルジュが死んではじめての日曜日、ドレ一家は墓参に出かけたが、ジョルジュの墓の十字架がなくなっているのを見て、ドレは、グーアルの仕業にちがいないと思い込み、そこへ来たグーアルと大格闘をはじめた。しかし司祭の言葉で盗んだのはミシェルだとわかり、ドレはミシェルが何のために十字架を盗んだのか理解に苦しんだ。翌朝、ドレ家に二人の憲兵が訪れた。ドレはてっきり十字架泥棒がばれたものと思ったが、実はポーレットを孤児院にひきとりに来たのだった。ミシェルの必死の懇願にもかかわらずポーレットは連れさられた。雑踏する駅の一角、ポーレットは悲しく母を呼び求めて、ひとり人々の間を駈け去って行った。
――この突き放すような結末に公開当時の観客は唖然とし、今観ても本作がすごいのは基本は不幸のジェットコースター・ムーヴィーで、機銃掃射で父親も母親も同時に死に(この両親役は実際にヒロインの両親が演じており、児童心理カウンセラーが撮影に付き添って幼女をケアする配慮を配ったという『ポネット』とやり方は違いますが、映画と現実は別物と納得させる配慮が『禁じられた遊び』でも行われたことを示します)、抱いていた愛犬も死んで「死んでるじゃないか」と通りかかった人に橋下の川に投げ捨てられ、その犬の死骸を追って川辺に下りていくうちに農家ドレ家のミシェル少年と出会うわけですが、少年の家では長男が牛に蹴られて瀕死の騒ぎでどさくさ紛れに幼女は屋根裏部屋においてもらえることになります。少年の姉娘はいがみ合っているグーアル家の息子と恋してしょっちゅう逢い引きしており、幼女ポーレットはミシェル少年に教わって犬の墓を作りますがそれをきっかけに小動物の墓作りに熱中し始めます。ミシェル少年の姉娘ベルテはたがいの家にばれないように納屋や野原を恋人との逢い引きの場所にしていて、ポーレットの墓作りのためにせっせと十字架を自作したり盗んでいる弟ミシェルの行動に気づきますがおたがいが秘密を握っているので明かせない。牛に蹴られた長男は亡くなりますが、葬儀の場で棺に掲げた十字架の紛失(ミシェル少年が盗んでいた)にいがみあうグーアル家の仕業と思い込み、さらに墓地からの大量の十字架盗難事件(姉娘ベルテは目撃していましたが逢い引きの最中だったので隠しています)もグーアル家の仕業と思いグーアル家の墓地を滅茶苦茶にして復讐しますが、ミシェル少年の教会の十字架盗難未遂を見咎めていた司祭によって十字架盗難事件はすべてミシェル少年の仕業と明かされ、賠償金に悩むドレ家に警察がついに訪ねてきて、グーアル家とのいざこざではなく届け出を出していた戦災孤児ポーレットの引き取りと気づいてミシェル少年は十字架は全部返すからポーレットを家に置いてやってと頼んで隠し場所の水車小屋を白状しますが、ポーレットは引き取られていってしまいます。ミシェル少年は水車小屋に駆けつけ十字架を次々と川に投げ捨てます。一方ポーレットは赤十字のシスターと施設に向かうためごった返す駅にいますが、シスターがちょっと待っててね、と離れた隙に雑踏の中で「ミシェル!」と呼ぶ声を聞き、ミシェルの名を呼びながら一目散に雑踏の中に消えていきます。5歳の女児が雑踏の中に行方不明になるという衝撃的な結末は今観てもすごいので、戦災孤児の映画には違いありませんし十字架を小動物のお墓作りにして、結末ではポーレットを失ったミシェル少年が川にどしどし盗んで貯めていた十字架を捨てるのは反宗教的・涜神的には違いないですがエモーションは反戦メッセージや反宗教にはないので、ポーレットのお墓作りは突然の両親や愛犬の死に直面して生き残った幼女が思いついた(ミシェル少年から教わった)鎮魂の儀式なのが直接的に伝わってきますし、ミシェル少年が水車小屋に貯めこんだ十字架を川に投げ捨てるのは十字架の宗教的意味ではなく十字架を貢ぐ相手だったポーレットが突然連れ去られて二度と会う可能性すら無くなったからです。ポーレットがどさくさ紛れでドレ家に置いてもらえたのは長男ジョルジュが牛に蹴られててんやわんやという谷岡ヤスジ的状況だったからですし、ミシェルがポーレットに貢ぐための十字架泥棒に姉娘ベルテが気づいていながら話せないのはグーアル家のフランシスとの逢い引きといつもかちあってしまう(これも谷岡ヤスジ的)からで、ジョルジュの葬儀が終わってようやくドレ夫妻が戦災孤児の届け出を出していたのもドレ家とグーアル家の格闘で本人たちも損害賠償の方で警察のお世話になるのを心配していて閑却していましたがしっかり届け出をしていたわけで、この田舎ホームドラマはコメディではあってもメロドラマではなく、徹底してドライで猛スピードで展開し、古代ギリシャ演劇からドラマはバッドエンドで終わるのが悲劇(トラジェディ)、ハッピーエンドで終わるのが喜劇(コメディ)ですが『禁じられた遊び』はバッドエンド・コメディ、しかも幼女と少年二人だけの秘密の遊びというメルヘン的で抒情的設定を設けながらやっていることは十字架泥棒と小動物のお墓作りという陰惨さなので、この脚本はオーランシュ&ボストのものだとしても完璧な均整の茹で玉子のようにツルッと仕上げてみせたのはクレマンの冴えに冴えた演出・監督技巧です。ロッセリーニの『ドイツ零年』'51のロベール・ジュイヤールの撮影も素晴らしく、ポーレットとミシェル少年ばかりか素人キャストばかりを起用し、撮影予算で経費を使い切ったから音楽はナルシソ・イエペスのスパニッシュ・ギター独奏だけなのも全部成功しています。10年に1本の映画というのはこういう奇跡の映画を言います。真に名作かどうかとは別の次元で、ここでは空前の達成がすんなり行われており、あのブニュエルすら惜しげもなく絶讃したのは本作の残酷映画としての完成度と本質的な諧謔味を見抜いたからこそであり、『ロリータ』以前の『ロリータ』映画という先見性を予知していたからと思われるのです。
●9月28日(金)
『白い馬』Crin-Blanc (Films Montsouris, 1953)*40min, B/W : 1953年3月フランス公開
監督:アルベール・ラモリス(1922-1970)、主演:アラン・エムリイ、ローラン・ロッシュ
・フランス南部のカマルグに生息する野生馬の群れ。群れを率いるのは「白毛」と呼ばれる気性の荒い白馬だった。人間嫌いの白毛は、漁師の少年フォルコにだけ次第に心を開いていくが、牧夫たちは執拗に白毛を追い……。
[ 解説 ] 南フランスの荒地を舞台に美しい白馬と、彼に心を通わせ、次第に深い絆で結ばれていく少年との物語。監督・脚本は「素晴らしい風船旅行」のアルベール・ラモリス。出演は「ブラコ」のアラン・エムリー、「赤い風船」のパスカル・ラモリスほか。1953年カンヌ国際映画祭グランプリ(短編)受賞作。
[ あらすじ ] 南仏カマルダの荒地に野生馬の一群が生息していた。群れのリーダーは"白いたてがみ"と呼ばれる美しい馬だった。地元の牧童たちは、なんとかしてこの馬を捕らえようとしていたがいつも逃げられてばかりいた。ある日、近くに住む漁師の少年フォルコ(アラン・エムリー)は、白い馬が牧童たちに捕まっているのを目撃する。白い馬は檻を破って逃げ出すが、フォルコは馬を見つけて忍び寄った。白い馬はフォルコからも逃げようと、手綱を掴んだままのフォルコを引きずりながら駆け出す。しかし、いつまでたってもフォルコは手綱を放さなかった。やがて、ようやく白い馬は立ち止まる。フォルコは白い馬を家に連れて帰るが、牧童たちがつながれている馬を見つけ、再び馬は逃げ出してしまう。群れの元へ戻った白い馬だったが、すでに新しいリーダーが群れを支配しており、二頭の激しい争いが始まる。結局、怪我を負って群れから追い出されてしまった白い馬を、フォルコが再びかくまおうとする。しつこく追ってくる牧童たち。どこまでも逃げるフォルコと白い馬は、とうとう陸の果てまで来てしまうが、立ち止まりもせずにそのまま海の中へと飛び込んでいく。牧童たちが必死に呼び戻そうとする中、フォルコと白い馬は波の彼方へと消えていくのだった……。
――そんな具合で、撮影の労力も工夫も並大抵ではなかっただろう本作は波の彼方へ消えていき、決して褒められた出来ではないのですが観て損はないので(短いですし)、監督も故人ならナレーションをカットした再編集版もその後作られなかったのですが、サイレント映画ではなくてサウンド映画である効果は自然音の扱いに出ているので(それも音楽が邪魔していますが)、これはこれで映画史上の珠玉作と見なされて歴史に名を残している作品です。カット割りや構図の平坦なのは被写体の都合上仕方ないという感じもし、草原に火が放たれる場面でも緊迫感が稀薄なのは起こっている事態は大変でも画面は地味なので(「燎原の火」のように派手に燃えたりはしないので)ナレーションが緊急事態を声高に強調しても何だか作り事っぽい感じしかしないのです。ラストシーンの海だけはさすがに迫力があり、水平線まで何もない広大な荒海の映像というのは人類の遺伝子レベルの感受性に訴えかけてくるものがあって、臭いナレーションが最後のひと言だけ光る部分でもあります。本当にナレーションはこの締めくくりの一文だけだったらどんなに良かったかと思えるので、そういう意味でも本作は映画の見方を教えてくれる作品ではあります。馬と少年と海という道具立てはかなり必殺の取り合わせですし、この映画の取り柄もそれだけですが映画監督の力量がいかんせんアイディア止まりでそれ以上の映画にはならなかった残念賞映画でしょう。まさかカンヌ映画祭が残念賞の意味をこめて表彰したとは思えませんが、残念賞映画の系譜というのがあるとすれば本作はその好例に上がる1作とも言えそうです。