人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源・番外編 /『伊東静雄詩集』より「寛恕の季節」

[ 伊東静雄(1906-1953)、大阪府立住吉中学校在職時代 ]

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伊東静雄詩集(創元選書)桑原武夫富士正晴
創元社・昭和28年(1953年)7月30日刊

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  寛 恕 の 季 節    伊 東 静 雄

まず病者と貧者のために春をよろこぶ
下着のぼろの一枚をぬぐよろこびは
貧しい者のこころにしみ
もつとものぞみのない病人も
再び窓の光に坐る望みにはげまされる
国立病院の殺風景な広い前庭には
朝を待ち兼ねて
ベンチの陽にうずくまる人を見る
ぐる/\ぐる/\駅前の焼跡の一画を
金輪をまわし際限もなくめぐる童子
金輪は忘我の恍惚にひかつて
行きすぎる群衆の或る者を
ふとやさしい微笑に誘う
よごれた鴎が飛ぶ のろく橋をくぐつて
街の運河のくさい芥の間に餌を求め
やがて一ところに来て浮ぶ四羽五羽
水に張り出したバラックの手摺から
そつちに向けて二人の若者が
トランペットの練習をしている
不揃いの金属音の響きは繰り返し
この寛恕の季節のなかを人々は行き交う
そして遠く山間や平野の隅々に
まだ無力に住み残つた疎開者たちは
またも「模様」を見に
もとの都会に一度出かけてみようと思う

 (昭和24年=1949年3月10日「毎日新聞」)


 旧制中学校(のち新制高校)国語教師として生涯を送った詩人、伊東静雄は晩年4年間は闘病生活を送って世を去りました。昭和24年(1949年)6月に発症した結核から同年10月には入院し、昭和28年には教え子だった富士正晴、知友の桑原武夫によって全詩集『伊東静雄詩集』が編纂されましたが、刊行間際の3月12日逝去。享年47歳、『伊東静雄詩集』は著者沒後の同年7月に追悼出版になりました。
 伊東静雄が生前刊行の詩集4冊『わがひとに與ふる哀歌』'35(昭和10年10月刊・27編)、『夏花』'42(昭和17年5月刊・21編)、『春のいそぎ』'43(昭和18年9月刊・28編)、『反響』'47(昭和22年11月刊・既刊3詩集からの選詩集+新作10編・拾遺3編)に収めた詩編は『反響』から全詩集『伊東静雄詩集』までに書かれた11編を合わせても200ページにも満たないものだったので、生前の伊東の指示で詩編題名や語句の改訂を行い決定稿とし、『春のいそぎ』から詩人の意に満たない7編を除いた最晩年までの全詩集『伊東静雄詩集』はそのまま昭和32年(1957年)には新潮文庫で再刊されて昭和50年代までロングセラーを続け、昭和60年代~現在は岩波文庫で再刊されて版を重ねています。
 のち昭和36年(1961年)に初の『伊東静雄全集』が編まれ、生前に散文集を持たなかった伊東の多くのエッセイや完全未発表の書簡・日記が公刊され、また伊東が詩集に収めなかった同人誌・雑誌発表詩も『伊東静雄詩集』と同等の編数、分量があるのも全集で集成されて明らかになりましたが、それらはすべて戦前・戦中までのもので戦後の新作は正味『反響』の10編、『伊東静雄詩集』で追加された「『反響』以後」の11編しかありません。うち最後の2編は最晩年の昭和28年に書かれた短詩の病床心境詩で、おそらく結核発症直前の受診時の嘱目から書かれた「寛恕の季節」は伊東の最後の本格的な詩となった作品です。
 春の詩である同作を秋に引くのは少々季節はずれですが、寒波も猛暑も同じようなものとすれば季節の暖寒に一喜一憂するのは年を通して常のことで、秋晴れにこの詩を読んでもさほど違和感はないでしょう。伊東静雄の最高の詩はもっと屈折して晦渋なものですが、最晩年の詩がこうした機知に富んで優しい作風なのは、晩年というにはまだ若いですが、何だかほっとするような気がします。