人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

伊東静雄「水中花」(『詩集夏花』昭和15年=1940年より)

(伊東静雄<明治39年=1906年生~昭和28年=1953年没>)
f:id:hawkrose:20200628001658j:plain

「水中花」

 伊東静雄

水中花(すゐちゆうくわ)と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすい/\削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの花の姿にひらいて、哀れに華やいでコツプの水のなかなどに凝としづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯燈に照しだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

今歳(ことし)水無月(みなづき)のなどかくは美しき。
軒端(のきば)を見れば息吹(いぶき)のごとく
萌えいでにける釣(つり)しのぶ。
忍(しの)ぶべき昔はなくて
何(なに)をか吾の嘆きてあらむ。
六月(ろくぐわつ)の夜(よ)と昼のあはひに
万象のこれは自(みづか)ら光る明るさの時刻(とき)。
遂(つ)ひ逢はざりし人(ひと)の面影
一茎(いつけい)の葵(あふひ)の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花(すゐちゆうくわ)。
金魚(きんぎよ)の影もそこに閃(ひらめ)きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死(し)ねといふ、
わが水無月(みなづき)のなどかくはうつくしき。

(昭和12年8月「日本浪漫派」)


 第2詩集『詩集夏花』(子文書房・昭和15年=1940年3月15日刊)収録。伊東静雄(明治39年=1906年12月10日生~昭和28年=1953年3月12日没)の詩は第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年=1935年10月刊)を詩集全編ご紹介しましたが、29歳時の同詩集以降、35歳までの作品から21篇を収めたこの第2詩集が生前に5冊が編まれた伊東静雄の詩集でも最高のものでしょう。この詩集は刊行後2年を経た昭和17年(1942年)5月に「日本浪漫派」同人の田中克己の『楊貴妃クレオパトラ』とともに第1回北村透谷賞を受賞しましたが、同月に伊東静雄は第1詩集を激賞してくれた萩原朔太郎の逝去を新聞で知り大きな衝撃を受けていました。第1詩集と『詩集夏花』の間に、伊東静雄の東京での詩集刊行記念会の際に伊東を自宅に泊めた中原中也(1907-1937)と、伊東が中原以上に共感を寄せていた立原道造(1914-1939)が早逝しています。また戦局は南京事変にまで進み、伊東は公立中学校国語教師だったため徴兵されませんでしたが、大阪で伊東が親しく交わっていた詩友の多くが徴兵されています。

 ロマン主義詩と反ロマン主義詩が交互に配置された第1詩集『わがひとに與ふる哀歌』に較べ、第2詩集『詩集夏花』は一見ロマン主義詩に統一され、より日常的な題材に材を採った詩集に見えます。しかしこの詞書(ことば書き)と短詩の一体化した作品「水中花」は日常的な題材とは思えないほど激越なもので、水中花の美しさに「堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。/金魚の影もそこに閃きつ。/すべてのものは吾にむかひて/死ねといふ、」とは何という発想でしょう。伊東は体育教師の夫人との間に愛児2児をもうけた家庭人でしたが、幼な子を育てながら縁日の水中花からこれほどの詩を詠んでみせる詩人でした。この詩を含む『詩集夏花』が高橋新吉の詩集『雨雲』、立原道造の『萱草に寄す』、同じ大阪在住の詩人だった小野十三郎の『詩集大阪』、さらに高村光太郎の『智恵子抄』と同時期の詩集とはにわかには信じ難いほどですが、日本の現代詩は昭和10年代にそこまでの多様性を示していたのです。