人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2018年10月20日~21日/アメリカ古典モンスター映画を観る(8)

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 コスミック出版の『フランケンシュタインvs狼男』『ドラキュラvsミイラ男』に続く古典ホラー映画ボックス第3集は『ホラー映画パーフェクトコレクション・ゾンビの世界』2017年6月23日刊(10枚組)で、ジョージ・A・ロメロ逝去の前月にリリースされた同ボックス収録作品は、1. ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド('68)、2. 私はゾンビと歩いた!('43)、3. ゴースト・ブレーカーズ('40)、4. 歩く死骸('36)、5. 恐怖城('32)、6. 月光石('33)、7. ブードゥーマン('44)、8. 死霊が漂う孤島('41)、9. ブロードウェイのゾンビ('45)、10. ゾンビの反乱('36)でした。コスミック出版のシリーズはパブリック・ドメイン作品を収録しているので他のシリーズでもほとんどが'53年までの映画ですが、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』'68はインディペンデント映画だからかパブリック・ドメイン化していたようで、おかげでゾンビ映画の第1作と言われる『恐怖城』から現代ゾンビ映画の原点『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』まで一気に10本のゾンビ映画が観られる重宝なセットになっています。セットの収録順を組み変えて解説すると、『月光石』'33はブリティッシュ・ゴーモン(フランスの映画社ゴーモンのイギリス支社)製作のイギリス映画でボリス・カーロフ主演作であり、『恐怖城』'32と『ゾンビの反乱』'36の2作はヴィクター・ハルペリン監督のインディペンデント映画で『恐怖城』は初のゾンビ映画かつベラ・ルゴシ主演(メジャー配給)、『ゾンビの反乱』は不死身のゾンビで軍隊を作るという戦争怪奇映画(インディー配給)です。マイケル・カーティス監督作『歩く死骸』'36はワーナーのボリス・カーロフ主演作、ジョージ・マーシャル監督作『ゴースト・ブレーカーズ』'40はパラマウントボブ・ホープ主演作とメジャーからの作品で、『死霊が漂う孤島』'41と『ブードゥーマン』'44はマイナー映画社モノグラム映画社作品で、『ブードゥーマン』はベラ・ルゴシ主演作です。名高いジャック・ターナー監督作『私はゾンビと歩いた!』'43とベラ・ルゴシ主演の怪作『ブロードウェイのゾンビ』'45はメジャーのRKOラジオ映画社のプログラム・ピクチャー作品で、つまりユニヴァーサル・ホラーを集めた『フランケンシュタインvs狼男』『ドラキュラvsミイラ男(1作のみコロンビア)』と違ってゾンビ映画は映画会社もばらばら、メジャーとマイナーとインディペンデント映画が均等に混在する(つまり1社がシリーズ化したゾンビ映画ではない)面白いコレクションになっています。10本中『月光石』は戦前日本公開もされたイギリス映画ですが監督も主要キャストもハリウッドから招いた作品であり、ボリス・カーロフ主演の『魔の家』'32と『ミイラ再生』'32を模倣した内容で、'38年の再上映を最後に'69年にチェコスロバキアで発見されるまで散佚フィルムと思われていた稀少な歴史的作品の上、他社から2013年に発売された日本盤DVDが68分の不完全版なのに対して80分の完全版で収録されています。筆者も昨年発売のこのセットで初めて観た作品が多く、ゾンビ映画などそうそう観ない(ましてや古典ゾンビ映画など)と思うと、まとめて観直すのもまた一興です。――なお今回も作品解説文はボックスセットのケース裏面の簡略な作品紹介を引き、映画原題と製作会社、アメリカ本国公開年月日を添えました。

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●10月20日(土)
『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』Night of The Living Dead (The Walter Reade Organization/Continental Distributing'68)*96min, B/W; アメリカ公開'68年10月1日
監督 : ジョージ・A・ロメロ
主演 : デュアン・ジョーンズ、ジュディス・オディア、カール・ハードマン、マリリン・イーストマン、キース・ウェイン、ジュディス・リドリー 、ラッセル・ストライナー
・父の墓参りの途中、バーバラと兄のジョニーはゾンビに襲われた。倒れた兄を置き去りにしてバーバラが近くの民家に逃げ込むと、そこには黒人青年ベンのほか5人が隠れていた。やがて周囲はゾンビの群れで溢れ……。

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 この映画は映画好きの皆さんならほとんどの方がご覧になっていると思いますので、不安をあおる冒頭の墓地到着から、登場人物たちが立てこもる屋敷内の類型的ながらその分シンプルなのが効いた鮮やかな人間ドラマと、皮肉で痛烈な結末まで隙のない見事な出来映えは素晴らしいの一言に尽きるのはことさら述べるまでもないでしょう。CMフィルム製作者出身のジョージ・A・ロメロ(1940-2017)監督の長編映画第1作の本作は現代ゾンビ映画の原点としてあまりに有名な作品で、ホラー映画のジャンルにとどまらない名作として高い評価を受け、ニューヨーク近代美術館所蔵フィルムに収録され、'99年度(第11回)アメリカ国立フィルム登録簿にアメリカの古典映画として登録されています。この登録簿は毎回25本、初公開から10年以上経過しているアメリカ映画を古典として国立図書館に永久保存登録する文化財保存法ですから、第10回までに250本、続く25本中に本作が選ばれたということで、登録簿は翌2000年には300本に達しますから、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は20世紀('90年まで)のアメリカ映画ベスト300に入る作品と認定された、インディペンデント映画としては抜きん出た人気、評価、知名度を誇る作品です。やはり高い評価を誇る'60年代のインディペンデント映画にハーク・ハーヴェイ(1924-1996)の『恐怖の足跡(Carnival of Souls)』'62があり、ロメロを始めデヴィッド・リンチ(1946-)やルクレシア・マルテル(1966-)、ジェームズ・ワン(1977-)らインディペンデント映画出身監督が絶大な影響を表明していますが、年代からいって初公開時から『恐怖の足跡』に注目していたのはロメロとリンチでしょう。ハーヴェイもロメロ同様CM製作者(アメリカのCMはいわゆるテレビCMより、企業のPR映画が中心です)が念願の長編映画を自主製作したものですが、アート・フィルムを意図したのにホラー映画としてポルノ映画館やドライヴイン・シアターで上映され、人気や知名度では『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』には及ばないにせよアメリカのインディペンデント映画史で肩を並べる作品です。ハーヴェイ作品がサイレント映画の古典やヨーロッパ映画のドライヤーやベルイマンに学んだ映画だったように、ロメロも少年時代にユニヴァーサル・ホラーを観て育ち、高校生最後の夏休みにヒッチコックの『北北西に進路を取れ』'59の撮影に雑用係のアルバイトをした経験から友人たちとCM製作会社を設立した素養のある人で、ロメロの同世代アメリカ監督からは大学の映画学科出身者が増えてくるのですが、実地に叩き上げの所からインディペンデント映画監督だった点でロメロはむしろ反ハリウッド、反主流的な精神で、スタンリー・キューブリックや(俳優出身ですが)ジョン・カサヴェテスらと近い系譜の映画作家でした。
 ――ゾンビ映画は'70年代のオカルト映画ブーム以降のホラー映画の過激化からスプラッター・ホラー色の強いものが主流になってしまい、本作もそういう作品かと思って避けている方もいらっしゃるかもしれませんが、最初に遭遇するゾンビはヒロインもうっかり挨拶しようとして近づいてしまうくらい普通の初老の紳士のなりですし、腐敗したような姿のゾンビが現れたり死体を喰らったりするシーンは主要登場人物たちから犠牲者が出始める映画の3/4過ぎ以降で、それもくどい描き方ではありません。本質的には本作は外部からの攻撃を防ぎ脱出・逃走の手段を図る室内劇で、テーマは登場人物たちが「生き残る」ことに尽きますから、戦争映画の塹壕戦や戦艦・潜水艦ドラマ、銀行や学校・交通機関などの乗っ取り立てこもり犯罪サスペンスなどと同じ仕組みであり、スプラッター・ホラー要素よりも逃げこんだ館に居合わせた登場人物たちの生き残るための人間ドラマが、悪化する外部状況に伴って展開する極限状況というシチュエーションのためのゾンビ映画ですから、映画作りとしては真っ当すぎるほど真っ当です。登場人物たちの類型的な図式化も少ない人数で効果的なドラマ作りをするには人数も性別、性格、役割も適切で、中年期までの人間も余命を意識した老人のように、極限状態に近づけば近づくほどその人物の本質的な人間性が露わになるので、監督(原案者との共同脚本)のロメロがまだ20代のこの作品でも人間性への洞察力は確かです。若いカップルのトムとジュディ、怪我をして意識不明の少女の娘カレン連れの中年夫婦ハリーとヘレン、行動力のあり意志の強い黒人青年ベンと茫然自失の白人ヒロインのバーバラ、という組み合わせで展開される立てこもりドラマの密度は黒澤明の監督第1作『姿三四郎』'43に小津安二郎が「10点満点で100点あげてもいい」と絶讃したのに匹敵するもので、本作は『姿三四郎』よりは少し長いですが90分台でこの引き締まった内容は、現代映画としてはインディペンデント映画監督ならではの気概を感じます。『北北西に進路を取れ』でアルバイトした時から映画の基本を学ぶ一方でハリウッド式製作システムに疑問を抱いたというロメロは、のち大成するもハリウッドの製作システムとは生涯相性が悪かったそうですが、これだけ作家性の強い作品から長編劇映画のキャリアを始めたからにはハリウッドの求めるスター主義、企画主義、撮影効率には馴染めなかったのも無理ないところで、本作が一見閉じたホラー映画仕立てのドラマながら社会的な隠喩や、時代思潮への批判的コメンタリーになっているのも自然に滲み出ているので、まずメッセージありきの映画ではないのにコンパクトな内容以上のスケールを獲得しています。28歳のインディペンデント映画監督の第1作でこれほどの作品になったのはアメリカ映画界の歴史と厚みを思い知らせられ、反主流の側から作られて主流映画をしのぐ正統派の傑作が生まれたことを含め、本作はすでに公開50周年になりますが、この頃起こった何度目かのアメリカ映画の転換期(メジャーでは「アメリカン・ニュー・シネマ」という形で現れます)の嚆矢とも言うべき金字塔になりました。そしてその完成度、映画としての高い志、節度、端正さではメジャー作品も舌を巻く出来を示しているのです。

●10月21日(日)
『月光石』The Ghoul (Gaumont British'33)*80min, B/W; イギリス公開'33年8月・アメリカ公開'34年1月
監督 : T・ヘイズ・ハンター
主演 : ボリス・カーロフセドリック・ハードウィック、アーネスト・セジガー、アンソニー・ブッシェル、ドロシー・ハイソン
・病気で死に瀕死したモーラン教授は、生き返るために掌に月光石を包帯で巻いてこの世を去る。弁護士のブロウトンは教授の死後、墓を暴くが、月光石は見つからない。彼は助手のレーンが盗んだと確信したが……。

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 こりゃひどい映画だなあ、と呆れるばかりの凡作の本作は歴史的には注目される点の多い作品で、まずフランスの大映画社ゴーモンのイギリス支社ブリティッシュ・ゴーモンがハリウッドから監督や主演俳優を含む主要スタッフ、キャストを招いて製作した企画であり、ブリティッシュ・ゴーモンはイギリス時代のヒッチコックが'33年~'37年に『暗殺者の家』'34~『第3逃亡者』'37までの名作を残したことでも有名ですが、ヒッチコックは助監督時代から監督デビュー以来のプロデューサーのマイケル・バルコンがブリティッシュ・ゴーモンのプロデューサー就任に伴って移籍してきたので、この『月光石』はプロデューサーのマイケル・バルコンによる製作です。バルコンはヒッチコックの監督デビュー作、第2作も主演女優はハリウッドから招き、当時最新設備のドイツの撮影所でドイツ、フランスとの合作映画として製作した顔の広い国際プロデューサーですが、ヒッチコックをデビューさせた最大の功績があるにしろ企画センスにはちょっと山師的な感覚があり、『月光石』も映画社が'28年刊の舞台劇化もされたThe Ghoulミステリー小説『The Ghoul』を映画化しあぐねていたものを、『フランケンシュタイン』'31に続く'32年のボリス・カーロフ主演主演作『魔の家』『ミイラ再生』の趣向を借りてパクれないかとボリス・カーロフ始めハリウッドの主要スタッフとキャストを招いて英米混合スタッフ・キャストで撮ったもので、脚本が無駄に多い登場人物と無理な展開をこなしきれず、見始めてすぐに嫌になるくらい内容が頭に入ってきません。監督はサイレント短編時代からのヴェテランだそうですが、すでに'27年以来渡英していたといいますから本作のために招かれたというよりハリウッド出身監督とスタッフに企画をあてがったと言うべきですが、この監督の手腕も褒められたものではなく人物関係や時間経過が混乱していますし、映像にもムラがあって見苦しい。しかもボリス・カーロフ以外のほとんどの俳優の演技が不自然に誇張されて拙いのは演出のせいも大きいとして、男性主人公のアンソニー・ブッシェルが壊滅的な大根役者です。ヒロインのドロシー・ハイソンも魅力がありませんがブッシェルがあまりにひどいのでまだしもに見えるほどで、ヒロインの親友役でコメディエンヌ的役割を勤めるキャスリーン・ハリソンは吉本新喜劇でも通用しないような芝居です。こんな映画でもアメリカ公開後の昭和9年には日本公開されたそうで(月日不明)、当時のキネマ旬報近着外国映画紹介には試写時の紹介文が載っています。俳優の名前に間違い(スペルミス)が散見するので英文プレスシートから翻訳したあらすじと思われますが、このあらすじを読んでから観ないと何が何だかわけがわからないくらい、実際の映画は言語道断・支離滅裂です。
[ 解説 ]「フランケンシュタイン」「魔の家」のボリス・カーロフが主演する怪奇映画で、フランク・キングとレナード・ハインズの原作をローランド・パートウィーーとジョン・ヘイスティングスターナーが共同脚色し、全て「死後の霊魂」をものしたT・ヘイス・ハンターが監督に当り、「クウレ・ワムペ」のギュンター・グランプが撮影した。助演者は「魔の家」のアーネスト・セジガー、「南欧横断列車510」のセドリック・ハードウィック、ドロシー・ハイスン、アンソニー・ブッシェル等である。
[ あらすじ ] 埃及学者モアラント教授(ボリス・カーロフ)は臨終の床に侍僕のレイング(アーネスト・セジガー)を呼び、「永劫の光」と呼ぶ宝石を自分の掌に入れて包帯を巻かせた。彼はこうする事によって天国へ行けると信じていたのである。そして彼の死体は埃及風の墓場に葬られた。レイングはこの宝石はモアラント家の相続者たる教授の甥ラルフ(アンソニー・ブッシェル)及びベティー・ハーロウ(ドロシー・ハイソン)に与えらるべきものとの考えから盗み出してしまった。ところがこの宝石を狙うものにモアラント家の法律顧問ブロートン(セドリック・ハードウィック)、アラビア人ドラゴレ(ハロルド・ハス)等があった。彼等は巳にモアラント教授の死体から「永劫の光」が盗み去られたことを知り、暗中飛躍を始めた。ラルフは叔父が死んだことも通知に接せず、葬式にも立会はされなかったので、ブロートンを訪問した末、ベティーとその友人のケイニー(キャスリーン・ハリソン)と共にモアラント邸に乗込んだ。これより先き、レイングはベティーに「永劫の光」を渡そうとして果たさなかったのである。その夜は丁度満月の夜だった。故教授はもしも「永劫の光」を奪う者あらば、満月の夜に蘇って取殺すと宣誓していたが、満月が墓場の扉に光を投げた時、モアラント教授の姿が音もなく扉を開いて現れた。そしてレイングは蘇生した教授の手に扼殺されて最後を遂げた。教授は「永劫の光」を奪い返すや、墓場に戻り、埃及神像の掌にそれを乗せて、狂信者の法悦に浸って死んでしまった。そして遂に「永劫の光」を狙う人々の争闘が始まったが、悪漢(ラルフ・リチャードソン)達は駆けつけた警官隊に捕えられ、ラルフとベティーに宝石は与えられた。
 ――以上がキネマ旬報掲載のあらすじですが、併せて掲載されているキャスト表を見るとスペルミスが非常に多い。ほとんどは日本語表記するとわかりませんが、たとえばヒロインのドロシー・ハイスンの役名はベティ・ハーロウ(Harlow)ではなく実際はハーロン(Harlon)です。もっとも現行版はチェコスロバキアで発見されたチェコ上映版プリントに新規に英語のクレジット・タイトルを起こしたものらしいので、その過程で起こったスペル違いかもしれません。映画はと言えば、どれだけおざなりな代物かというと、教授の葬儀に牧師として登場するハートリー牧師(ラルフ・リチャードソン)が偽牧師で宝石泥棒の真犯人とわかるのも伏線もなければハートリー牧師の人となりも描かれないので唐突なだけですし、コメディエンヌのケイニーが宝石を拾ってさらに悪徳弁護士ブロウトンとエジプト富豪ドラゴアがケイニーを追いつめると警官隊が包囲して事件解決、とはあんまりです。この映画は(1)アヌビス神信仰によって蘇る死者のボリス・カーロフが抱く復活の鍵の宝石と、(2)お化け屋敷の中の宝石争奪戦と、(3)復活した死者のボリス・カーロフが盗まれた宝石を取り返すためにさまよい人を襲うのと、宝石を奪い合う悪党たちにはボリス・カーロフの復活の神秘などどうでもいいですし、カーロフは一旦宝石を取り返したら満足して今度は本当に成仏してしまうので、宝石の奪い合いはまだまだ続きます。これはお化け屋敷映画に死者復活ものを組み合わせた構成で、エジプト学者の死んで復活する教授役のカーロフはゾンビというよりミイラの性質が強いので、復活のためにはアナビス神を祀った台座と満月と満月の光とアナビス神信仰を結晶させるための宝石「月光石」の3条件が揃わなくてはなりません。そこらへんが一度観てすんなりわかるかというと、語り口が下手なせいで場面場面の内容がちっとも観客の頭に整理されて入って来ず、シナリオがずさんなせいで悪党たちがエジプト学者復活の怪奇現象と宝石「月光石」の関連をどう認識しているかもわからないまま映画は結末まで進んでしまいます。古代エジプトの宝石どころか死者蘇生の魔力を秘めた魔石となれば宝石自体の価値どころではなくなるはずですが、この映画の悪党たち(主人公とヒロインも)は「お化け屋敷の宝探し」の次元の登場人物たちなので、シリアスに死者蘇生のホラー映画を演じているのはボリス・カーロフだけ、つまりそういう演出がなされているのはボリス・カーロフ絡みのシーンだけで、最後に宝石泥棒逮捕のどたばたで屋敷は炎上しますが、これも怪奇映画のお約束で蘇った死者の遺体は滅びたということになりますが、この映画の登場人物たちはそれも気づいていないのです。ひょっとしたら脚本家や監督、プロデューサーまで気づいておらず、ユニヴァーサル・ホラーのラストシーンの真似をしただけかもしれません。このイギリスのメジャー映画社のブリティッシュ・ゴーモン作品がいかに取り柄のない映画か、にもかかわらずボリス・カーロフの『フランケンシュタイン』『魔の家』『ミイラ再生』に続く作品としてカーロフ主演という一点で歴史的作品になっているかを思うと、せっかくカーロフを起用し、カーロフ絡みのシーンだけは主演俳優の力量で魅力的になっているだけに、どうしてこざかしい宝石争奪戦映画にしてしまったのか、カーロフ一本で押すべきだったのではないかと悔やまれますが、これはもともとの原作小説に死者蘇生をねじ込んだことに原因があるようです。つまり企画自体に無理があったのを無理矢理作ってしまったゆえの駄作なので、35年後のインディペンデント映画の名作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』とは較べるべくもない代物です。しかし古今東西、世の映画の大半は『月光石』と同レベルと思えば、ことさら本作をあげつらうほどでもないでしょう。