人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小野十三郎「軍用道路」「天王寺公園」(詩集『古き世界の上に』昭和9年=1934年より)

[ 小野十三郎(1903-1996)、40代前半頃。]
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第3詩集『古き世界の上に』
昭和9年(1934年)4月15日・解放文化聨盟出版部(植村諦聞)刊
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「軍用道路」

 小野十三郎

暗い郊外の野をつらぬいて
かなたの山麓
また、一直線に路がついた
月のある晩だし、このあたりは少し小高くなつてゐるので夜目にもずうつと向うの果まで見渡しが利くのだ
路に沿うて林立する電柱や敷きつめられた茣蓙や
いまや工事が完成した
月光を浴びたアスファルトの路面に
被布でおおわれた地ならし(ローラー)の黒い影がのび
道路のまん中に放り出されたセメントミキサーは残骸のやうな白い乾いた口を夜空に向けてゐる
何といふ静かさだらう
犬の仔一匹あらわれない
まつたくしーんと静まりかえつてゐるのである

天王寺公園

 小野十三郎

嘘のやうだ
十年の歳月が流れたとは
路端の風にあふられる新聞屑
ところきらはず吐きちらされた痰唾、吸殻、弁当殻
藤棚のある運動場
雨水の滲みこんだ公会堂の壁
砂を浴びた樹木や芝生
古ぼけた鉄骨の高塔――「通天閣
そのかなたに浮かんでゐる夏雲のみだれ
そしてまたこゝを歩いてゐる人々の疲れた顔、黒い眼眸
みんな昔のまゝだ
リボンのとれた帽子も よごれた白衣も 「昨日」もああしてベンチの上や植込の蔭で身体を折り曲げて眠つてゐた
十年前にもあゝして鉄柵のところでみすぼらしい鮮人の女は子供のおしつこをさしていたつけ
あゝ、しかしなんとかれらの数の増えたことか
してみると何もかも昔のまゝと言ふわけではないのだ
俺は再びこの街に帰つてきた
そして昔なじみの公園を歩いてゐる
埃つぽい樹木やゴミゴミした雑踏の間を
俺は「俺の故郷」についてなんの淋しさも自嘲も今は感じない
ただこの眼に映るものを残らずはつきりと視たい気持だ

(詩集『古き世界の上に』より2篇)


 小野十三郎(1903-1996)の詩はさまざまなアンソロジーに収録されていますが、昭和35年(1960年)から昭和38年(1963年)にかけて刊行された、明治から戦後の現代詩人までを収めた角川文庫『現代詩人全集』全十巻中の第六巻・現代II(大正~戦後までのアナーキズムコミュニズム系の詩人15人を収録、昭和36年2月刊)に作品が収められるに当たって、第3詩集『古き世界の上に』から選出した6篇から同文庫刊行時の最新詩集『重油富士』(昭和31年=1956年刊)収録詩篇まで全30篇の小詩集が編まれています。この選抄はこの巻の編者の盟友詩人・伊藤信吉による選か小野十三郎自身による選か明記はありませんが、伊藤信吉は小野より3歳年少ながら早くから交友があり、小野十三郎の最後の詩集になった『冥王星で』(平成4年=1992年)にも小野の求めで巻末エッセイを寄せているほどですから、小野の意をくんだ伊藤信吉と小野十三郎自身の共選と見なしていいでしょう。

 角川文庫版『現代詩人全集』の小野十三郎集には、第1詩集『半分開いた窓(私家版)』(大正15年=1926年刊)からではなくこの詩集『古き世界の上に』から収録作品が始まっていおり、『古き世界の上に』は小野自身が『冥王星で』巻末の「単行詩集略誌」では『半分開いた窓(訂正再版)』(昭和3年=1928年)を第2詩集としているので第3詩集とし、また総合詩集『大阪(創元選書版)』(昭和28年=1953年)を初版詩集『大阪』(昭和14年=1939年)と別の詩集と数えているので『冥王星で』を第22詩集としていますが、小野十三郎が戦後に主宰した「大阪文学学校」門下生たちが中心となって小野の全業績を検討した山田兼士・細見和之編の論集『小野十三郎を読む』2008(平成10年)では『半分開いた窓(訂正再版)』と『大阪(創元選書版)』を除いて小野十三郎の詩集は全20冊とし、『古き世界の上に』は第2詩集としています。初版『半分開いた窓』を第1詩集、『古き世界の上に』を第2詩集とすれば、この詩集は23歳から31歳と小野の詩歴ではもっとも間隔を開けて創作された詩集に当たります。

 また小野自身も『小野十三郎全詩集』(昭和53年=1978年、立風書房)では既刊14詩集(『半分開いた窓(私家版)』『半分開いた窓(訂正再版)』は1冊に統合)に補遺詩編150篇余をまとめていますが、晩年の『小野十三郎著作集(筑摩書房、全三巻)』(平成2年~3年=1990年~1991年)では『新興文学全集・第十巻』'29(昭和4年)に収録された新詩集1冊分相当の「小野十三郎集」を『サツコ、ヴアンゼツチの死』として初めて再録し、これは内容的にも『半分開いた窓』から『古き世界の上に』の橋渡しとなる詩集と見なせます。アナーキズムの詩人仲間・秋山清岡本潤とは昭和2年から交友がありましたが、萩原恭次郎草野心平、伊藤信吉と親交を深めたのもこの年からです。また昭和6年(1931年)には共訳『アメリカプロレタリア詩集』に草野心平萩原恭次郎、麻生義と分けあって30篇のアメリカのプロレタリア文学の現代詩を翻訳しており、これも初めて『小野十三郎著作集』に再録されました。

 しかし小野にとって転機となったのは、昭和6年に第一子を授かって入籍し(長子相続制で女性に相続権のなかった戦前は第一子出生後に婚姻届を出すのが慣習でした)、翌年には第二子を得てさらに翌昭和8年(1933年)4月、大正10年(1921年)以来学業を機に暮らしていた東京から郷里の大阪に所帯を移したことで、上京の年に18歳になった小野は帰郷した年には30歳を迎えました。そして小野十三郎は93歳の享年(平成8年='96年)まで生涯を大阪の詩人となります。

 第1詩集『半分開いた窓』は内省的な詩と外向的な詩に傾向が分かれていましたが、この大阪に帰って最初の詩集『古き世界の上で』では各段に文体がこなれ、第1詩集のような力みや屈託(それが第1詩集ならではのみずみずしさでもありましたが)がなく、ごく自然に書かれた詩を書けるようになった小野十三郎の姿が見られます。小野は『古き世界の上に』を、小林多喜二との交友からプロレタリア文学陣営の小説・詩にも理解が深く、大正世代の文学者としてはほとんど稀に、若いプロレタリア文学者からも広津和郎とともに尊敬されていた志賀直哉(この年ライフワーク『暗夜行路』を20年越しに完結完成・刊行したばかりでした)に献呈し、志賀から絶讃の書簡を寄せられます。角川文庫『現代詩人全集』第六巻・現代IIに選抄された『古き世界の上に』からの6篇はすべて生活体験の具体性に自然に心情を託したささやかな佳篇・好篇になっており、これまでご紹介した『半分開いた窓』収録作の生硬さと打って変わったこの自然な流露感はまさに詩人として仕切り直した、本格的な出発を感じさせるごくさりげない、ただし劇的な変化がうかがえるものです。これは望郷の詩であるとともに帰郷の詩であり、そこには永住の覚悟がこめられていることも感じられます。この詩集を志賀直哉が非常に好意的に激賞し、それを小野十三郎が生涯の誉れとしたというのも愛すべきエピソードでしょう。

(旧稿を改題・手直ししました)
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