[ 小野十三郎(1903-1996)、40代前半。]
小野十三郎第4詩集『詩集大阪』
昭和14年(1939年)4月16日発行 定価1円
四六判 87頁 角背フランス装 装幀・菊岡久利
「早春」
ひどい風だな。呼吸がつまりさうだ。
あんなに凍つてるよ。
鳥なんか一羽もゐないじやないか。
でもイソシギや千鳥が沢山渡つてくると云ふぜ。まだ早いんだ。
広いなあ。
枯れてるね。去年もいま頃歩いたんだ。
葦(よし)と蘆(あし)とはどうちがふの?
ちがふんだらうね。何故?
向ふのあの鉄骨。どこだ。
藤永田造船だ。駆逐艦だな。
澄んでるね。
荒れてるよ。行つてみよう。
「葦の地方」
遠方に
波の音がする。
末枯れはじめた大葦原の上に
高圧線の弧が大きくたるんでゐる。
地平には
重油タンク。
寒い透きとほる晩秋の陽の中を
ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され
硫安(りゅうあん)や曹達(ソーダ)や
電気や、鋼鉄の原で
ノヂギクの一むらがちぢれあがり
絶滅する。
「明日」
古い葦は枯れ
新しい芽もわづか。
イソシギは雲のやうに河口の空に群飛し
風は洲に荒れて
春のうしおは濁つてゐる。
枯れみだれた葦の中で
はるかに重工業原をわたる風をきく。
おそらく何かがまちがつてゐるのだらう。
すでにそれは想像を絶する。
眼に映るはいたるところ風景のものすごく荒廃したさまだ。
光なく 音響なく
地平をかぎる
強烈な陰影。
鉄やニッケル。
ゴム 硫酸 窒素 マグネシウム
それらだ。
(『詩集大阪』より3篇)
*
小野十三郎(1903-1996)の『詩集大阪』(同名詩集『大阪(創元選書版)』が戦後の昭和28年=1953年にも創元社から刊行されますが、同詩集は『詩集大阪』とそれに続く詩集『風景詩抄』1943、『大海辺』1947、『叙情詩集』1947を合本し、新作7米を加えた総合詩集です)から、全35篇のうち冒頭の「早春」、3篇目の「葦の地方」、6篇目の「明日」を引きました。この3篇も小野の自選小詩集、角川文庫『現代詩人全集』第六巻「現代II」(伊藤信吉<1906-2003>編・解説、大正~戦後までのアナーキズム・コミュニズム系の詩人15人を収録、昭和36年='61年2月刊)の30編のうちで詩集『古き世界の上に』(昭和9年=1934年)からの6篇に続いて採られた『詩集大阪』からの5編中の前半3篇です。
この詩集『詩集大阪』はやはり大阪出身で当時慶應大学文学部教授だった日本古典文学の碩学・折口信夫が愛読・絶讃していたのが知られ(折口自身には『詩集大阪』に言及した批評はありませんが、弟子たちや近親者に推挙してやまなかったのが証言されています)、また小野十三郎自身も本作で画期的な詩法に達したと生涯自負していた重要な詩集です。大阪に帰郷してからの初めての詩集だった前作『古き世界の下に』も内容の大半は東京在住時の作品で、大阪帰郷以降の詩篇は1/4にも満たず、その代わり東京在住時の詩作は帰郷後の水準から厳選されたものでした。本詩集『詩集大阪』からは全編が大阪帰郷以降の新作になり、昭和14年という戦況の悪化時からもこれが戦争終結時までの最後の詩集になるだろう、という覚悟を持って書かれ、編纂された詩集なのがうかがえます。そして何より文体と発想が一変しました。今回ご紹介したのはそれが顕著に表れている3篇です。折口信夫はプロレタリア文学を国民文学的発展の面から積極的に評価していましたが、おそらく『詩集大阪』こそは折口が望んでいたような正統な文学的発展に現れたプロレタリア文学の、詩における実現でした。
小野十三郎は、角川文庫版アンソロジーに先立つ筑摩書房刊『現代日本文學全集 89・現代詩集』(昭和33年=1958年2月刊)収録の自選小詩集15篇(連作詩を個別に数えれば26篇)では自選集冒頭を『詩集大阪』からの「早春」「明日」の2篇から始めており、また同自選集末尾に自身で略歴を書き下ろしています。これは小野自身による50代半ば時点での小自伝でもありますから、前文を引用しておきましょう。
「明治三十六年七月、大阪に生る。東洋大學中退。萩原恭次郎、岡本潤、壺井繁治ら、『赤と黒』の詩人たちとの邂逅が、私の詩人としての進路に決定的な影響をあたえた。しかし詩法を確立したのは、昭和十四年に出した第三詩集『大阪』以後と言ってよく、また戦時中『文化戦線』に連載した「詩論」で問題提起した短歌的抒情の問題は、今でも私の追究しようとする創作理論の中心テーマとなっている。著書に九冊の詩集、五冊の評論集がある。新日本文學會、現代詩人會に所属す。」
小野の単行詩集序数はややまちまちで、最後の詩集となった『冥王星で』(平成4年=1992年刊)は高齢の小野に代わって小野に師事した詩人の寺島珠雄に編・解説が任されていますが、寺島氏は『冥王星で』を22冊目の単行詩集とし、巻末の「小野十三郎単行詩集略誌」で第1詩集『半分開いた窓(私家版)』(大正15年=1926年)と『半分開いた窓(市販訂正再版)』(昭和3年=1928年)を別々に数え、また昭和14年(1939年)版『詩集大阪』と昭和28年(1953年)版『大阪(創元選書版)』を別々に数えています。
しかし小野自身が昭和53年('78年)刊の『小野十三郎全詩集』では『半分開いた窓』は私家版・市販訂正再版とも一本化し(『大阪(創元選書版)』からは新作のみ再録)、小野没後、小野が戦後に主宰した「大阪文学学校」門下生たちが中心となり小野の全業績を検討した山田兼士・細見和之編の論集『小野十三郎を読む』2008(平成10年)では『半分開いた窓(市販訂正再版)』と『大阪(創元選書版)』を除いて小野十三郎の詩集は全20冊とし、『古き世界の上に』は第2詩集、従って『詩集大阪』は第3詩集となり、それ以降の詩集も『大阪(創元選書版)』以降の詩集もくり上がるので、最後の詩集『冥王星で』は22冊目ならぬ第20詩集になる、というのが現在での一般的な見方です。
それよりも何より重要なのは、筑摩書房版『現代日本文學全集 89・現代詩集』で小野が「第三詩集『大阪』」を「詩法を確立した」詩集として特別に上げていることでしょう。続けて小野は「また戦時中『文化戦線』に連載した「詩論」で問題提起した短歌的抒情の問題は、今でも私の追究しようとする創作理論の中心テーマとなっている」と記しています。もちろん小野は従来の日本の詩の短歌的抒情性に対して短歌とは別な新たな詩の可能性を探っていたので、叙景に情緒を託した詠嘆ではないもっと即物的な見方による詩の世界を作ろうとしています。その点では、「明日」の、
おそらく何かがまちがつてゐるのだらう。
すでにそれは想像を絶する。
という強い主観的判断による2行は詩篇「明日」にとっては効果の上では効いていても、小野の意図していたこの詩の手法では誤算になっているのが惜しまれます。
(旧稿を改題・手直ししました)