第3詩集『古き世界の上に』
昭和9年(1934年)4月15日・解放文化聨盟出版部(植村諦聞)刊
[ 小野十三郎(1903-1996)、40代前半頃。]
「留守」
ひさしぶりにたずねていつたが友はゐなかつた
置手紙でもしようと思つて裏口からあがつてみた
そこら中新聞や古雑誌が散乱しチャブ台の上にも電気の傘にもホコリが分厚くつもつてゐた
かたえの壁には破けたポスターがはつてある
それは昨年の夏太平洋のかなたから日本の同志のもとへ送つてきたあのサツコとヴアンゼツチのための一枚であった
かれらももう今はゐない
雨水か何かがしみこんだのであろう。活字の赤インキが全面に散つてそれが血痕のやうにどす黒くにじんでゐた
「同伴者」
雨天には蝙蝠傘
そしてゴム靴とくるだろう
そいつはあたりまえだ
親愛なる折鞄、蝶ネクタイ、一輪挿し共よ
俺たちは知つてゐる
君たちがめいめい腹の中に小さな不平をもつてゐることを
君の主人に対して、君の現在の位置に対して、そして君の朋輩に対してすらも
俺たちは同情すべきか
俺たちはその同情を蹴飛ばすべきか
俺たちは知つてゐる
君たちは何ごとにも控え目であることを
突き離された貨車がやがて静かに停止するやうに
君たちの制動器も心配なくよく利いてゐることを
君たちはそのときに三分の一ばかり怒つてみる、そして止める
俺たちは加勢すべきか
俺たちは手を引くべきか
俺たちは知つてゐる
君たちが非常に涙もろいことを
そしてそれは君たちが他の誰かにくらべて自分を些(いささ)か幸福であると考えるからだと
たとえば乞食や浮浪者たちに
君たちは決心する
君たちはまた何でもないことに笑いくずれる(世界を震撼させるものは百パーセントの爆笑だ)
土曜日の夜などに四五人よつて泥酔して唄など歌つてゐると心からなさけない気がする
酔え! 酔え! 酔え! 酔いつぶれろ!
きさまらの棒杭にみんなしてしがみつけ
(詩集『古き世界の上に』より2篇)
*
小野十三郎(1903-1996)の第3詩集(オリジナルとしては第2詩集)『古き世界の上に』の概要については前回詳しくご紹介しました。今回も小野が戦後の角川文庫『現代詩人全集』第六巻・現代II(大正~戦後までのアナーキズム・コミュニズム系の詩人15人を収録、昭和36年2月刊)に収めた小詩集30篇のうち巻頭に選ばれた『古き世界の上に』からの6篇からご紹介していきます。先の2篇「軍用道路」「天王寺公園」は所帯を上げて郷里大阪に12年ぶりに帰郷、居を構え故郷を見つめた詩人の心情を詠んだものですが、続く今回の2篇「留守」と「同伴者」は小野十三郎とコミュニズム運動の関わり、微温的な態度の大衆の存在という状況への苛立ちを語ったもので、プロレタリア詩としての姿勢の明確な詩篇ですが、歴史的状況を今に伝える作品として生々しく、小野十三郎のプロレタリア文学時代の佳作と呼べるものです。
小野は昭和2年(1927年)にはアナーキズム詩誌「文芸解放」創刊同人となり、アナーキズム系詩人はこの頃はコミュニズム系の詩人とは対立していたのですが、同年にアメリカで1919年~1920年に起きた一連の集団強盗事件から共にイタリア移民の製靴工ニコラ・サッコ(1891-1927)と魚行商人バルトロメオ・ヴァンゼッティ(1888-1927)がアナーキスト・グループの首謀と目され1920年5月に逮捕、1921年7月にはコミュニズム革命計画準備の容疑も併せて死刑判決を受け、アメリカのアナーキスト・グループとコミュニズム・グループの結束による粘り強い抗議運動にもかかわらず1927年8月23日に死刑執行されました。これはロシア革命を受けた革命運動家冤罪弾圧事件として国際的な抗議を呼び起こし、小野もすぐに詩篇「サツコ、ヴアンゼツチの死」を発表し、ソレルの『暴力論』の訳書やアメリカのプロレタリア詩の翻訳を発表するようになります。また第1詩集『半分開いた窓(私家版)』(大正15年=1926年)・第2詩集『半分開いた窓(訂正再版)』(昭和3年=1928年)に続いて『新興文学全集・第十巻』(昭和4年=1929年)に収録された新詩集1冊分相当の「小野十三郎集」を晩年の『小野十三郎著作集(筑摩書房、全三巻)』(平成2年=1990年)に『サツコ、ヴアンゼツチの死』として初めて再録しており、これは第3詩集『古き世界の上に』の橋渡しとなる位置にある事実上の第2詩集とも見なせます。アメリカの詩人に学んでアナーキズムとコミュニズムの統一を指向するようになった小野は昭和4年にはアメリカのプロレタリア詩の指導的詩人、カール・サンドバーグの訳詩を発表するかたわらサンドバーグに自著を送り、サンドバーグからプロレタリア文学運動の資料やアドバイス、詩集を受けます。
昭和5年(1930年)初頭に小野が秋山清、岡本潤、草野心平、萩原恭次郎らと創刊した詩誌「弾道」ははっきりとアナーキズムとコミュニズムの統一を打ち出したものになり、昭和6年(1931年)には共訳『アメリカプロレタリア詩集』に草野心平、萩原恭次郎、麻生義と分けあって30篇のアメリカのプロレタリア文学の現代詩を翻訳しており、これも初めて『小野十三郎著作集』で再録されました。前年から内縁関係にあった夫人との間に第1子を授かり正式に婚姻届を出したのもこの年で、翌昭和7年(1932年)にはコミュニズム傾倒の強い岡本潤、秋山清が創刊した「解放文化」にも参加(「弾道」は第2次創刊)、この年に次女を授かります。小野が郷里の大阪に所帯を移して居を構えたのは昭和8年(1933年)4月で、「弾道」は終刊し、小野は同年10月に第1批評集『アナーキズムと民衆の文学』を刊行します。同年末に長男を授かった小野は、単行詩集としてはひさしぶりの『古き世界の上に』を帰郷後1作目の詩集として昭和9年(1934年)4月に刊行しますが、『半分開いた窓』(全64篇)、『サツコ、ヴアンゼツチの死』(全49篇)と同等の55篇を収めながら大阪帰郷後の新作はまだ第一部の9篇だけで、第二・三部の46篇は在京中の作品でした。しかし全9章の長編批評『アナーキズムと民衆の文学』が1920年代後期~1930年代前半の批評活動の総決算だったように、『古き世界の上に』もまた在京時代の総決算と新出発を期してまとめられた詩集でした。
草野心平の留守宅を訪ねた折を詠んだ「留守」は、そうと知らないともっと過激な立場を取っていた秋山清や岡本潤が検挙された時の詩かと構えてしまいますが、草野の場合は生活に追われて居住を転々としていたのでそうした意味での「留守」ではありません。しかし草野ですら(もちろん小野自身も)十分に突然の検挙を受ける可能性はあり、この詩の与える印象は不吉で不安なものです。
また「同伴者」で糾弾される微温的大衆への苛立ちと批判は現代でも通用する内容を持っており、プロレタリア詩人である小野自身がプロレタリアの小市民的存在、感覚に対する懐疑、嫌厭感を拭いきれない状況をあからさまに批判詩にしたもので、長編批評『アナーキズムと大衆の文学』でプロレタリア大衆の覚醒を呼びかけてすらなお生理的感覚ではプロレタリア大衆の微温性を感受せずにはおれない詩人のジレンマを現しています。それを突き抜けて小野が非情な詩の世界を拓くのは、次の本格的な大阪帰郷以降の作品からなる詩集『大阪』(昭和14年=1939年)まで5年を要するのです。
(旧稿を改題・手直ししました)