人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年5月1~3日/蔵原惟繕(1927-2002)と日活映画の'57~'67年(1)

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 今年はロイドとキートンの短編サイレント喜劇、小林正樹監督作品、アステアのミュージカル映画ソヴィエト連邦末期のパラジャーノフ監督作品、長編アニメのしんちゃん映画、サイレント時代のソヴィエト映画の古典プドフキンとドヴジェンコの代表的三部作ときて5月は何を観ようかな、とたまたま持っている日本映画のDVDを整理していたら'50年代後半~'60年代末の製作縮小までの日活映画が意外と集まっていたのでそこから選んで観直すことにしました。'70年代にロマンポルノ作品を主力とする日活映画は世界的にも類がないメジャー映画社のポルノ映画路線によって世界映画の尖端を行く飛躍を見せますが、それに先立つ'50年代後半~'60年代後半の10年前後の日活映画もどこか日本映画、メジャー映画社製作の規格を逸脱した挑発性で異彩を放っています。戦時中には統合されていた戦後の日本映画界はまず松竹・東宝大映東映・新東宝のメジャー5社が五社協定を結んでおり、俳優やスタッフは当時映画会社の専属社員制だったので5社間での貸し借りはできましたが、日活は松竹と並ぶ日本最古からの映画会社でありながら戦後に再建されるも外国映画の配給のみで戦後の製作スタートが遅れて、ようやく昭和29年(1954年)に製作を再開するも五社協定を結んでいたメジャー5社からは圧力がかけられ、スタッフもフリーのヴェテラン監督以外は他社の助監督をスカウトした新人たちでしたし、俳優もスターとは呼べないフリーの舞台人ばかりを専属俳優に招いたものでした。その日活が一躍メジャー5社に並んだのが昭和31年('56年)5月の『太陽の季節』に始まる「太陽族」映画のブームで、同作で端役デビューを飾った新人俳優・石原裕次郎(1934-1987)は次作『狂った果実』'56.7で初主演し、昭和31年だけで7作、昭和32年('57年)には10作に出演し、特に『俺は待ってるぜ』'57.10と『嵐を呼ぶ男』'57.12は大ヒットしてスターの地位を固めます。画期的作品『狂った果実』が松竹の助監督から引き抜いた中平康(1926-1978)の監督デビュー作、また『俺は待ってるぜ』も松竹の助監督から引き抜いた蔵原惟繕の監督デビュー作であり、さらに昭和33年('58年)1月の石原裕次郎主演作『心と肉体の旅』も新東宝の助監督から引き抜いた桝田利雄(1927-)の監督デビュー作と、日活が他社での実績のあるフリーのヴェテラン監督に混じって新鋭監督をデビューさせたのは当時の他社にはない特色になりました。昭和32年~昭和33年の日活の勢力は従来のメジャー5社に迫ったので昭和33年8月には日活は五社協定から新たに六社協定に迎えられ、以降特色の薄かった新東宝が'61年には倒産し、時代劇を主とする大映は映画以外にまで広げた事業展開が裏目に出て経営が悪化の一途をたどりましたが('71年製作休止)、ホームドラマと喜劇の松竹、娯楽に徹した東映、大作主義と企画性に富んだ東宝に互して日活は昭和34年('59年)~39年('64年)まで東映または東宝に次ぐ業界2位の業績を上げるも、昭和40年('65年)には業界全体の東京オリンピック開催・テレビ普及による興行大減収に伴い東宝東映に次ぐ3位、さらに昭和42年('67年)には経営陣内部対立による人事大異動のため製作公開に混乱が生じ興行収入大激減となり業界4位に低下し、翌年には製作方針を純愛青春映画中心とする急激な路線変更が始まります。日活はヴェテラン監督による保守派路線ももともとあったのですが、'50年代後半~'60年代後半の日活ならではの異色作は中平康の『狂った果実』または蔵原惟繕の『俺は待ってるぜ』から監督解雇問題にまで発展した鈴木清順(1923-2017)の『殺しの烙印』'67.6までの時期の、日活が監督デビューさせた監督の作品から採りたいと思い(つまり川島雄三監督作品、日活での監督デビューながら川島雄三の助監督として一緒に松竹から移籍してきた今村昌平は入れず)、また15作を選んだらシリーズものはあえて入れず(つまり「渡り鳥」シリーズは入れず)、たまたま蔵原惟繕監督作品が半数近い7本になったので優先し中平康鈴木清順作品は1、2本になりました。『赤い波止場』は入れて『紅の流れ星』が入らない、小林旭ばかりか赤木圭一郎和田浩治の主演作もないのに川地民夫の主演作はある、という変なセレクトになりましたが本腰を入れるなら10年間の日活映画から選べば100本は選ばねばならず、さすがにそれだけまとめて観直すのはきびしいので、たまたま手持ちにあった中から蔵原惟繕監督作品を主に15本を選んだということで勘弁してください。なお、歴史的意義を鑑みこれら日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●5月1日(水)
蔵原惟繕(1927-2002)『俺は待ってるぜ』(日活'57.10.27)*91min, B&W : https://youtu.be/7xHcW-4mZ1c (Fragment)

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 併映『花嫁は待っている』(監督=青柳信雄、主演=小泉博・青山京子、92分)との2本立てで公開された本作は石原裕次郎の15本目の出演作ですが、前年昭和31年('56年)5月に古川卓巳(1917-2018)監督の『太陽の季節』に端役出演(太陽族の実物として)でデビュー、次の『狂った果実』(同年7月)では主演、昭和31年だけで7作の日活映画に出演すれば歌手デビューも果たし、本作が8作目になった昭和32年('57年)には年末の『嵐を呼ぶ男』(同年12月)まで10作の出演作を数えるという多作ぶりです。顔見せ的なゲスト出演作品、オールスター作品も含めてですが、年間10作の出演ペースは昭和33年('58年)、昭和34年('54年)にも続き、昭和35年('60年)も9作に出演しましたが翌昭和36年('61年)は初頭にスキー場の事故で骨折したため回復を待って4作にとどまるも、昭和37年('62年)は大ヒット作『銀座の恋の物語』『憎いあンちくしょう』を含む9作と復調します。昭和38年('63年)には4作、昭和39年('64年)には6作、昭和38年('63年)には5作と作品を絞るようになったのは昭和38年に石原プロモーションを設立して日活専属俳優を辞したからですが、デビューから昭和37年までの7年間に59作(第2作から主演)とは東京オリンピック開催・テレビ普及以降の日本映画界では考えられない現象です。また石原裕次郎は'70年代~'80年代は映画を離れテレビドラマ出演に移り「大都会」'76-'78(日本テレビ)、「西部警察」'79-'84(テレビ朝日)なども人気番組でしたが最大の長寿ヒット番組になったのは「太陽にほえろ!」'72-'86で、昭和31年のデビューから病状悪化による番組降板の昭和61年まで「太陽」が看板だったと思うと、52歳の早逝(肝臓癌)を免れたとして映画への復帰はあり得たか考えさせられます。石原裕次郎昭和9年12月生まれなのでトップスターの地位を築き、日活を業界2位の映画会社に押し上げ既定の五社協定に六社目として六社協定を結ばせる功績のあった昭和32年~33年にはまだ22~23歳という若さでした。新しい映画が現れる時には新しい監督・スタッフ、新しい俳優の出現が見られますが、前後10年を経た昭和30年代には俳優からはまず石原裕次郎が従来にはないタイプの俳優として現れたことになる。中平康監督による石原裕次郎の初主演作『狂った果実』はフランス公開時に映画批評同人誌時代のフランソワ・トリュフォーが絶讃したというのも、トリュフォーの同人誌仲間のクロード・シャブロルが監督に進出して作った第2作『いとこ同志』'58はほとんど『狂った果実』の翻案とも言える内容になっていることでも直接間接の影響がうかがえるので、中平康と同様に石原裕次郎主演作の本作『俺は待ってるぜ』で監督デビューした蔵原惟繕昭和35年('60年)9月の第6作『狂熱の季節』では同年3月末日本公開されたばかりのジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』を強く意識した作品を作る。一方観客層の若年化に対応しようとした松竹が若手助監督の監督昇進を早めて大島渚が『青春残酷物語』をヒットさせたのが同年6月で、松竹は篠田正浩吉田喜重らを次々監督デビューさせます。吉田喜重の第1作『ろくでなし』(同年7月)は日本公開前から『勝手にしやがれ』の内容や評判を聞き製作されたものでしたが、松竹の意図とは違って松竹の若手監督たちは連帯意識はほとんどなく各自が強い方法論を持っていました。また松竹の若手監督の出現がフランスのヌーヴェル・ヴァーグ映画の台頭になぞらえられたのに対して日活の鈴木清順中平康蔵原惟繕、桝田利雄らはそれに先んじてヌーヴェル・ヴァーグと比肩し得る作風でデビューを飾っており、また日活に続いて石原慎太郎原作の太陽族映画を送り出した大映(市川昆『処刑の部屋』'56.6)、東宝(堀川弘通日蝕の夏』'56.9)に続き、市川昆(大映)、増村保蔵(大映)、今村昌平(日活)、堀川弘通(東宝)、岡本喜八(東宝)、沢村忠(東映)ら有力な昭和30年代監督の出現があって松竹のヌーヴェル・ヴァーグ路線が企画されたというのが通説です。戦後監督デビューとはいえ戦時中からの映画人で年長だった古川卓巳監督の『太陽の季節』は長門裕之南田洋子主演の青春メロドラマ調のもので、起点とすべきは中平康監督の衝撃的傑作『狂った果実』でしょうが、少し飛んで次々作『嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督作品)とともに石原裕次郎の人気を決定づけたこの『俺は待ってるぜ』を蔵原惟繕の初々しい監督デビューとともに最初に取り上げたいと思います。初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 石原慎太郎が弟の裕次郎の歌ったヒット・ソングにヒントを得て書き下したサスペンス・ドラマ。監督は新人、蔵原惟繕が昇進第一作として当り、「危険な年齢」の高村倉太郎が撮影した。主演は「鷲と鷹」の石原裕次郎、「勝利者」の北原三枝。二人を中心に菅井一郎、二谷英明、草薙幸二郎らが助演する。
[ あらすじ ] 波止場の近くの小さなレストラン"リーフ"のマスター譲次(石原裕次郎)は元ボクサーだった。喧嘩で人を殺したのを苦にしてやめたのだ。彼の兄(河合健二)はブラジルにいて、一年後には彼を呼んでくれる約束だっだ。約束の日も近い或る夜、兄への手紙を出しに行った帰り、港をさ迷っていた歌手早枝子(北原三枝)を救った。彼女は働いていたキャバレー"地中海"の経営者、波止場の顔役柴田弟(波多野憲)に言い寄られて、花瓶で頭を殴りつけ、殺したと思いこんでいた。翌日から、彼女は"リーフ"で、はたらき始めた。互いに二人は心ひかれた。映画見物の帰り、柴田弟に見つかった早枝子は譲次にかばわれ難を逃れた。彼女は店の常連の年老いた医者内山(小杉勇)から譲次の身上話をきいた。内山は一年前酔って手術をし、誤って一人の男を殺して以来大酒飲みになってしまった男だった。譲次が兄と約束した日が来ても、何の音さたもなかった。彼の手紙が返送されてきた。譲次の心は疑惑でおおわれた。その夜、店に柴田兄弟が現れ早枝子を返せと迫った。ボクサーくずれの柴田兄(二谷英明)が譲次をなぐりつけた。譲次はそのままそれに耐えた。人を殺した記憶が蘇ったからだ。彼らの一人が持っていたメダルは彼が兄にやったものと似ていた。調査すると、兄は船に乗っていず、何者かに一年前殺されていた。"地中海"に連れ去られた早枝子から例のメダルは兄のものと確認してきた。警察で彼は兄の殺された現場写真を見た。死体のそばに内山医師が写っていた――。譲次が手がかりの人竹田(草薙幸二郎)を探しているのを知った柴田は竹田を殴り海へ放りこんだ。彼を救った譲次は兄が金のため柴田兄に殺されたことを知った。彼は単身"地中海"に乗りこみ、凄じい殴り合いの末、復讐を遂げた。――彼は早枝子と結ばれた。
 ――石原慎太郎書き下ろし脚本は話に起こすとブラジル渡航を果たせず殺された兄の仇討ちをする弟、というプロットに黒澤明の『醉ひどれ天使』'48風の人物配置をしたもので、グランドキャバレーの格闘が本作のクライマックスですが『醉ひどれ天使』にもグランドキャバレーのシーンがあれば(クライマックスではありませんが)、同作の志村喬ヒューマニストの初老の医師を演じたように本作にも小杉勇が同じような医師役で登場します。主人公の三船敏郎の破格の演技とともに『醉ひどれ天使』は戦後の日本映画で最初の衝撃的作品になったので、日活の太陽族映画への対抗企画でもあった松竹の小林正樹の『黒い河』'57.10(同月の前週公開!)同様、本作も『醉ひどれ天使』に脚本・演出とも発想を得ている作品とすることができる。また日活戦後作品に全編の半分を割いた西脇英夫氏の名著『日本のアクション映画』'96(『アウトローの挽歌』'76改題改訂版)の指摘で初めて知りましたが、太陽族映画と石原裕次郎出演作で本作では仇役とはいえヤクザの世界に乗りこんでいく作品は日活映画では初めてになるそうで、これも三船敏郎捨て駒にされるヤクザの幹部候補の役の『醉ひどれ天使』由来でしょうが(松竹としては異色作の『黒い河』の仲代達矢も地元ヤクザでした)、東宝は戦時中から軍部と、戦後は東映とともに警察や自衛隊(!)ともパイプが太かったので反社会的な懲罰対象としては(もちろん観客へのアピールも高い)ヤクザを題材にしやすかった事情があります。外国映画のようにピストルや刃傷沙汰が日常茶飯の世界を描くにはアメリカのギャング映画に相当するヤクザを導入するのが手早い。しかし石原裕次郎をいかに派手に見せていくかとなると、本作ではボクサー崩れの前科者にしてヤクザの二谷英明と対決させ、翌昭和33年5月の『錆びたナイフ』では汚職シンジケートのボスを暴くやはり前科者の実質的にヤクザに近い水商売の男、同年9月の『赤い波止場』ではついにみずからヤクザの次期組長の座にある大物殺し屋を演じます。本作も波止場のある港町を舞台にしているのは『赤い波止場』ではずばりですし『錆びたナイフ』も海が近隣の町が舞台になっている。裕次郎が港で膝をつく北原三枝に出会うとヒロインの頬には海からの波の揺らめく反射光がたゆたっていますし、実在のモデルがあるかもしれませんがクライマックスのグランドキャバレーの床はガラス張りの床下照明で、光る床の上の格闘という異様な舞台となっています。こうした細部の演出は脚本指定ではないスタッフの創案と思われ、ロマンス絡みの復讐譚としては生硬な抽象概念語の台詞が耳障りなドラマに一触即発の雰囲気をもたらしています。また本作は今回観直した日活映画でも唯一B&Wのスタンダード・サイズで、次に取り上げる『錆びたナイフ』からはワイドスクリーン(シネマスコープに近い「日活スコープ」)ですが、スタンダード・サイズならではの画格のまとまりがクライマックスまで主人公が耐えに耐えるガマン劇に適合しているとも言えて、これがワイドスクリーンでは我慢に次ぐ我慢では映画が持たなかったろうとも思えます。本作は仇役も二谷英明と波多野憲の兄弟に分かれているのが作劇上の工夫とも辻褄合わせとも見えて復讐の焦点がぼけている気味があり、また人情家の医師も物語の展開上必要としても本作の主人公の立場からすれば仇役と同等以上に日和見的で偽善的な人物像です。そうした具合に本作はテーマの集中では『狂った果実』におよびませんが、太陽族映画から一歩踏み出してアウトローの主人公によるアクション映画に性格を進め、それにふさわしい映像スタイルを提示した功績が確かにある。本作の監督手腕はデビュー作相応に慎重な面もありますが、それも日活の同僚の中平康、桝田利雄ら同世代監督の大胆さに較べて本作を瑞々しい情感ある仕上がりにしていて、蔵原惟繕もすぐに一癖もふた癖もある監督になりますが、本作はまだ小品規模で瑕瑾も目立つとはいえ監督第1作ならではの愛らしさがあります。また全盛期初期の日活映画=石原裕次郎のステップアップの過程と着目して選ぶなら本作を起点として『錆びたナイフ』『赤い波止場』の3作で最短距離でたどれる点でも重要作であり、外国映画の翻案ぽさが意図せずしてフランスのヌーヴェル・ヴァーグと並行現象となっていたのを示す作品でもあります。また歌うアクション・スター、裕次郎の魅力を生かした構成は日活映画の歌謡映画としての大衆性の最大の強みとなったのものちの日活映画の路線を先んじたものです。

●5月2日(木)
舛田利雄(1927-)『錆びたナイフ』(日活'58.5.11)*90min, B&W : https://youtu.be/ta_up-NnOao (trailer)

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 舛田利雄はこの昭和33年('58年)1月の監督デビュー作『心と肉体の旅』から5月の本作で早くも3作目、11月の石原慎太郎原作で前年の映倫規定強化の原因になった『処刑の部屋』'57.6(大映・市川昆)を継ぐスキャンダラスな作品『完全な遊戯』(原作小説の中心である「知的障害者女性を監禁・輪姦する」設定は削られ、太陽族の破滅という内容に改められていますが)まで監督デビュー年だけで6作の監督作品を手がけますが、犯罪ミステリー・サスペンス(アクション)作は第3作のこの『錆びたナイフ』が初めてになります。前年の蔵原惟繕の監督デビュー作『俺は待ってるぜ』、本作から1作置いた舛田利雄の第4作『赤い波止場』(9月)とも物語や技法、ムードはデュヴィヴィエ、カルネら'30年代フランスの「詩的リアリズム」派にアメリカ戦後映画、黒澤明らの影響が強いものですが、アメリカの犯罪サスペンス映画=フィルム・ノワール(ヒューストン『マルタの鷹』'41を起点としウェルズ『黒い罠』'58までを区切りとする)を軸とした見方で『マルタの鷹』以前のギャング映画・探偵映画類をプレ・ノワールとし、フランス映画をフレンチ・ノワールとする視点ではこれらの日活映画はポスト・ノワール作品として再評価する欧米の批評家評価があり、アメリカの古典映画復刻レーベルCriterion社では2009年には『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』ら5作の日活作品をまとめた『Nikkatsu Noir』、2011年には'60年代の蔵原惟繕の日活作品5作をまとめた『The Warped World of Koreyoshi Kurahara』のDVDボックスをリリースしており、昭和30年代まだフィルム・ノワールという評価基準は生まれていませんでしたが、フランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品がアメリカ映画の摂取と従来型のフランス映画の革新から生んだ映画が偶然日活作品と似た作風になったように、官僚の腐敗を扱ったテーマとクライマックスの廃工場の対決の2点で本作は他でもない本場アメリカのフィルム・ノワールの終着点と目される『黒い罠』'58と似ているのも注目されます。しかも『黒い罠』はアメリカ公開'58年4月下旬、日本公開同年7月末ですから公開予告や原作小説があっても同年5月上旬公開の本作への直接影響は考えられないので、偶然に起こった着想や演出の類似としてもかたや怪物オーソン・ウェルズの主演・監督作、かたや監督デビュー年の新鋭監督の第3作ですから尋常ではありません。また本作は石原裕次郎小林旭がいかにもチンピラ然とした弟分、すぐ殺されますが裕次郎と旭の仲間役に宍戸錠の日活ダイヤモンドラインの揃った作品であり、裕次郎の歌う主題歌が売り上げ180万枚を越える大ヒット曲のミリオンセラーになるという具合に、前年10月公開の主演作『俺は待ってるぜ』、1作置いた12月公開の主演作『嵐を呼ぶ男』で確立した歌う主題歌タフ・ガイ石原裕次郎の人気をさらに押し上げる作品になりました。本作の裕次郎はレイプ事件にあって自殺した恋人絡みで関係者を刺殺した前科のある、陰のあるバー経営者で、『俺は待ってるぜ』の仇役兄弟がグランドキャバレー経営者とガードマンのヤクザ兄弟だったように裕次郎、旭、錠は裏稼業の兄弟分なのが暗示されており、本作も密告、謀殺、強姦、自殺強要と陰惨なムードに満ちた内容です。舛田利雄の脚色が決定的に陰惨な事件は暗示に留めているので目立ちませんが、石原慎太郎という人自体がこうした陰謀を政治性=ヤクザの世界ととらえる感覚があり、もっとあとの石原慎太郎原案の松竹作品『乾いた花』'64(監督・篠田正浩)でもヤクザの賭博場面があきれるほど延々描かれますが、太陽族が権力志向になると政治権力とヤクザを同列のシンジケートに描くようになるのが透けて見えるようで、本作が際どい場所で成立しているのが改めて感じられる。本作はまだリアリズム作品の次元で登場人物たちが描かれているので、逆にそれが縛りとなって主人公の裕次郎は追究はしますが復讐の手はすんでのところで下さないことになっている。本作と9月公開の舛田=裕次郎作品『赤い波止場』を分けるのは微妙かつ大胆な匙加減によるリアリズムからの飛躍なので、本作はまだアメリカ流ギャング映画の変奏の次元で描かれている。ですから偶然アメリカ映画『黒い罠』との類似が起こったのはゆえなしとは言えません。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ] 石原慎太郎の原作を、彼自身と舛田利雄が脚色、「夜霧の第二国道」の舛田利雄が監督、「佳人」の高村倉太郎が撮影したアクションドラマ。主演は「夜の牙」の石原裕次郎、「嵐を呼ぶ男(1957)」の北原三枝、「麻薬3号」の白木マリ、「夜の牙」の安井昌二。他に小林旭清水将夫らが出演。
[ あらすじ ] さる新興の工業都市。勝又運輸の社長勝又(杉浦直樹)が、検察庁に召喚された。狩田検事(安井昌二)の鋭い追求も、後難を怖れた被害者と目撃者の沈黙の前には無力だった。その殺人事件はまたも迷宮入りとなった。が、五年前自殺した西田市会議長は他殺だという投書が届いた。投書の主、島原(宍戸錠)は目撃者として自分の他に橘(石原裕次郎)、寺田(小林旭)という二人の男を知らせてきた。しかし、島原は西下の途中、何者かに列車から突き落されて死んだ。橘は町はずれのバー・キャマラードの支配人だ。かつて、やくざであり、恋人のために人を殺した。前科者。彼は平凡な市民になることが念願だった。アナウンサーの啓子(北原三枝)がこのバーに遊びにきて、この男に惹かれた。彼女の許婚者は橘と学校友達で間野明(弘松三郎)といい、紳士として評判の高い市会の実力者間野真吾(清水将夫)の息子だ。啓子が持参した街頭録音のテープで、橘は五年前の自分の恋人が暴行された事件は大勢の男が関係していることを知った。寺田が彼にかくれて、勝又から金を貰い、ズべ公の由利(白木マリ)と遊び廻っていたことを知り、橘は寺田を怒鳴りつけた。寺田は兄貴の恋人暴行事件の張本人は勝又だと捨ぜりふして飛び出して行った。勝又は何者かから無線機による指令を受けていた。小僧ヲ整理シロ。寺田は勝又に死のトラックに乗せられたが、橘が追ってきて救った。橘が勝又を縛り上げ、検察庁に着いたとき、先に知らせにきた寺田は、どこからか飛来してきた銃弾に倒れた――護衛に高石刑事(高原駿雄)がいたのに。新聞は勝又の逮捕で町が明るくなるだろうと一斉に書きたてたが、勝又が差し入れの毒まんじゅうで自殺し、あっけない幕切になった。が、はたして、そうか。橘は勝又の後に黒幕がいることに気づいた。彼は警察の裏庭で高石刑事が怪しい男と連絡しているのを見た。彼はイヌだったのだ。橘は無線機を使って、黒幕の男を海岸におびきだした。啓子は無線機のその声に思い当り、間野邸の真吾の居間へ行き、そこに無線機を見た。間野が仕込杖で高石を殺した直後、橘は海岸に着き、間野を面罵した。乱闘。彼が錆びたナイフを振り上げた時、啓子が必死にとめた。間野は自分の子分の車にひかれて死んだ。危く罪を重ねかけた自分――橘は砂山をトボトボとたどった。啓子は狩田検事に励まされ、彼の後を追って行った。
 ――あらすじを一読してもあまり一貫した筋が追えないように、本作はまず石原裕次郎が登場するまでが長く、さらに事件の焦点が二転三転するため主人公は一体何をどんな行動原理で追究しているかわかりづらい、という難があります。すっきりしたシークエンス単位で進行していくのは小林旭が殺され、それまで主犯と思われた杉浦直樹が差し入れの毒饅頭で詰め腹の自殺を強要されたあたりからで、さらに黒幕がいるというのと主人公の恋人を自殺に追いやったレイプ事件が結びつくまでが伏線不足のまま次々と事件が起こるのでいったいどこに話が収斂していくのか予想し難い。『俺は待ってるぜ』があまり動かない筋で結末の爆発まで生硬な台詞劇が目立ったとすれば、本作は事件はふんだんな分話が割れないように迂回の連続で、宍戸錠が殺され、小林旭が殺され、杉浦直樹も自殺を強要されと、裕次郎北原三枝のロマンスの進行とともに進んでいく展開は飽きさせませんが、『俺は待ってるぜ』同様ストーリーより各シーンの映像処理が勝っているので持っている映画とも見えます。舛田利雄の演出は蔵原惟繕とも違ったモダンさがあり、テンポの良さがワイドスクリーンの画格とともに陰惨なドラマを風通し良くしており、観たあと人にどういう話の映画だったか説明するには困るような込みいった展開のストーリーですが、裕次郎が仇の巨悪を追いつめて巨悪が自滅する話、と後半1/3で収束していく部分だけなら明快です。前半は宍戸錠小林旭と狙われる主人公がバトンタッチしていく展開のため、前半での裕次郎は主役というよりヒロイン役の北原三枝との出会いを通じて、実は後半の伏線を担うヒロインをドラマに誘いこむ役なのですが、歌謡映画としてのムード作りとともに陰惨な真相のドラマをドライかつムーディーに見せていく監督手腕は脚色段階から発揮されているのが感じられ、30歳の新鋭監督にして技巧の冴えにはまだまだ飛躍の可能性が期待されます。俳優・石原裕次郎の人気の裾野の広さは青春ロマンス映画、ホームドラマ、芸能映画、正統派アクション映画と多彩に主演していていたことにもあったのですが、際立っていたのはやはり太陽族映画以降のアウトロー役の路線であり、実際、1作置いて次に舛田利雄が撮った『赤い波止場』は、蔵原惟繕の『俺は待ってるぜ』から本作『錆びたナイフ』を経て石原裕次郎主演のアウトロー映画として理想的な発展を遂げた完成型とも言えます。この3作を三部作と見ると前2作ではまだ外せなかったリアリズムの桎梏が『赤い波止場』でついに映画そのものを別次元の世界に展開して虚構世界の一貫性にリアリティの水準を移す達成があったと認められるので、以降裕次郎主演作の名作は、'61年の負傷事故によるブランクを経て日活専属最後の年に放った大ヒット作、蔵原惟繕の恋愛ロマンス作品『銀座の恋の物語』'62.3や『憎いあンちくしょう』'62.7でもリアリティの基準は『赤い波止場』と同様に現実の世相を映画的虚構の水準に巧みにずらしたものになっている。『錆びたナイフ』はその一歩手前にありますが、しかし来るべき発想の転換を予兆させる作品として、犯罪ミステリー・サスペンス・メロドラマの課題をトリッキーな構成で乗り切った難も魅力も多い映画です。しかし従来型のリアリズムによっては映画自体も裕次郎アウトローとしてのキャラクターもこれが限界、と早くも臨界点を見せたと同時に犯罪映画の裕次郎作品は次には新たな段階へ進まずにはおれまい、と予感させるだけの本作ならではの危うさがあり、裕次郎みずから手を下さず仇役が自滅するあっけなさや都合の良さも『錆びたナイフ』の裕次郎の性格設定では順当で、シャープでスタイリッシュな映像と全編に漂う犯罪ムードともども本作ならではの魅力には支持者も多いと思われます。

●5月3日(金)
桝田利雄(1927-)『赤い波止場』(日活'58.9.23)*99min, B&W : https://youtu.be/JppZs7c9AIY (trailer)

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 舛田利雄の監督デビュー作『心と肉体の旅』'58.1は石原裕次郎主演作ながら残念にも未見のためどういう方向性の作品なのか文献から推察するだけでは無理があるのですが、同年2月の第2作『夜霧の第二国道』は50分弱の添え物用の小品ながら小林旭の初主演作品で、これが舛田利雄にとっても初の犯罪サスペンス・アクション映画になるそうです。チンピラの旭は姉御の女に騙され組から命を狙われて保険屋のフランク永井に救われる、というアンチ・ヒーロー的主人公で、続いて5月の『錆びたナイフ』でやはり命を狙われて今回は殺されてしまう裕次郎の弟分の役になる。公開は『錆びたナイフ』より先になる4月末の60分弱の中編『羽田発七時五〇分』は『錆びたナイフ』より後に完成した第4作に当たるそうで、フランク永井岡田眞澄が主演の犯罪アクション映画です。第5作『赤い波止場』は石原裕次郎主演によるヒーロー型アウトロー映画の完成型と言える作品で、舛田利雄は昭和33年最後の『完全な遊戯』(11月)を経て翌昭和34年最初の『女を忘れろ』(1月)ではともに小林旭主演によるアンチ・ヒーロー型アウトロー映画で鮮やかな達成を見せることになります。蔵原惟繕の『俺は待ってるぜ』から舛田利雄の『錆びたナイフ』で、クライマックスの爆発までの長い長い抑圧では共通しながらも増幅されているのは強い疲労感と倦怠感であり、『俺は待ってるぜ』も『錆びたナイフ』も決定的なのは私怨による復讐心ですが、兄の行方を追ううちに兄がヤクザに殺された事実を知る『俺は待ってるぜ』より物語開始以前にレイプ事件により自殺に追いやられた恋人を持ち、さらに汚職絡みの謀殺を知る弟分が次々と殺されていく『錆びたナイフ』の主人公は警察内部にすら内通者がいて復讐と自衛のためにも自分自身が事件を決着させねばならない立場に追いこまれるので、石原裕次郎の主演ではヒーロー型の人物像に描かれたものがまだ頼りない小林旭の主演ではアンチ・ヒーロー型の人物像の主人公になるのも的確な描き分けでしょう。さて本作は、ポスト太陽族映画の俳優として『俺は待ってるぜ』でアウトロー型主人公による犯罪サスペンス・アクション映画に踏みこんだ石原裕次郎が『錆びたナイフ』を経て一気に完全なアウトローの主人公を演じた作品で、まず原作・脚本に石原慎太郎が関与せず池田一朗(のちの作家・隆慶一郎)と舛田利雄の共同脚本に無駄がなくアイディアと見せ場も豊富なら構成も巧妙と脚本段階で十分に練られた作品なのが感じられます。本作がジャン・ギャバン主演のジュリアン・デュヴィヴィエの『望郷』'37を下敷きにした一種の翻案なのは有名で、『望郷』が世界一愛されている国は日本なのも有名ですから日本版『望郷』の本作も大ヒット作となり、舛田利雄自身が本作を渡哲也主演の『紅の流れ星』'67.10にリメイクしているほどですが、本作もストレートな『望郷』の翻案に終わらず、『赤い波止場』の裕次郎ギャバンよりも、舛田利雄池田一朗が意識していたかどうかわかりませんがラオール・ウォルシュの『死の谷』'49(昭和25年日本公開)のジョエル・マクリーの大列車強盗、それより『死の谷』のウォルシュ自身のオリジナルである『ハイ・シェラ』'41の銀行強盗のハンフリー・ボガート(同作は昭和63年まで日本未公開でしたが)を連想させるキャラクターになっている。ウォルシュ作品との親近性について言えば『錆びたナイフ』のクライマックスの廃工場はジェームズ・キャグニー主演の『白熱』'49(日本公開昭和27年)のクライマックスにも出てくるもので、『望郷』と本作で決定的なのは港町という背景での潜伏ですが、アメリカ映画からの摂取が本作を『望郷』の焼き直しではない戦後10年以上を経た新しさを感じさせる映画にしています。のっけからクレーン事故に見せかけたらしい殺人シーンで始まり、白いスーツで決めた裕次郎が平然と現場を通りかかる場面は本作公開後全国のヤクザの若い衆が一斉に白いスーツ姿で決めるようになったと言われる鮮やかな登場で、この神戸の港町に裕次郎が現れてからずっと裕次郎をマークしている刑事の大坂志郎(小津安二郎の『東京物語』'53の大坂の国鉄勤務の末弟役でお馴染み)ととぼけた会話を交わして笑い飛ばす。本作の裕次郎は東京の大きな組のNo.2格のヤクザで「レフトの二郎」と呼ばれるピストルの名手の殺し屋であり、身代わりの裁判が終わるまで神戸に身を潜めているのですが、やがて謎の殺し屋(土方弘)に狙われるようになり、神戸でできた弟分の岡田眞澄(どの文献でもDVDでも「タア坊」という役名なのですが、映画では「チーコ」ないし「チコ」と呼ばれています)も殺される。殺し屋を追いつめると実は組の兄貴分の二谷英明に差し向けられていたことがわかり、捕らえられていた岡田眞澄の恋人(清水まり子)が激昂して殺し屋を射殺したので裕次郎はその罪をかぶって二谷英明を訪ねて問い詰め、組の親分の危篤で次期組長の座を奪うため親分のお気に入りの裕次郎殺害を企てたのがわかる。そこから先は裕次郎は一直線にみずから仇敵を始末していく犯罪者となるのですが、その前に本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 神戸を舞台に、裕次郎がピストルの名手に扮して活躍するアクション・ドラマ。「明日を賭ける男」の池田一朗舛田利雄の脚本を、「羽田発7時50分」の舛田利雄が監督、「星は何でも知っている」の姫田真佐久が撮影した。「風速40米」の石原裕次郎北原三枝のコンビに、「明日を賭ける男」の中原早苗岡田眞澄大坂志郎、その他轟夕起子・二本柳寛・二谷英明・新人清水マリ子らが出演する。
[ あらすじ ] 神戸の桟橋で、杉田(弘松三郎)は落ちてくるクレーンの下敷きとなって死んだ。この麻薬売買のいざこざから過失と見せかけた殺人の現場に、偶然いあわせたのは通称左射ちの二郎こと富永二郎(石原裕次郎)だった。彼は東京で五人のヤクザをバラして神戸に流れついたのだ。今は松山組にワラジを脱いでいる。二郎の愛人マミー(中原早苗)が働くキャバレーの用心棒をしているタア坊(岡田眞澄)は、二郎を兄貴と呼んで慕っていた。死んだ杉田の妹・圭子(北原三枝)は、東京の大学をやめて、神戸へ帰って来た。二郎は圭子にひと目惚れした。彼の動静に絶えず眼を向けているのは、野呂刑事(大坂志郎)である。だがある晴れた日の桟橋には、二郎とタア坊と野呂の三人が並んで散歩している奇妙な風景が見られた。ところで、タア坊は今までの部屋を松山組の客人にとられて宿無しになった。その男は、土田(土方弘)という殺し屋だった。彼をさし向けたのは、神戸にやって来た東京藤田組の代貸・勝又(二谷英明)である。勝又は、藤田組の親分が世を去ると、二郎が東京にいるのを幸い、自分が親分におさまろうと考えたのだ。それには、目の上の瘤の二郎をバラす必要がある。折も折、タア坊が土田に殺された。恋人のミッチン(清水まり子)が土田に脅かされたので、果し合いを申しこみ、土田の拳銃に負けたのだ。二郎は土田がミッチンを閉じこめて暴行を働いている現場をつきとめ、土田の右手を狙って拳銃をたたき落した。ミッチンはその拳銃で土田のドテッ腹に撃ちこんだ。土田を失って逆上した勝又の挑戦を受け、勝又を殴り殺した二郎は、松山組の親分と幹部をも射殺、香港へ出航する手筈を整えた。が、二郎が圭子に惹かれていることを知る野呂は、圭子を囮にして、二郎をおびき寄せる計画をめぐらした。インチキ新聞を売収「港の暴挙、松山組杉田屋を襲う。圭子さん重傷、山手病院に収容」という記事を書かせてバラ撒かせたのだ。そして圭子を病院に軟禁、警戒の陣を布いた。二郎を乗せた車は、神戸港に向っていたが方向転換、病院の方角に走った。罠とは知りながらも、二郎は圭子の元気な顔をたしかめたかったのだ。圭子を窓ごしに見た二郎は、野呂刑事に素直に手を差し出した。
 ――本作ではついに石原裕次郎が意識的な犯罪者として描かれるのが『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』を踏み越えた点であり、信頼していた兄貴分の二谷英明の裏切りを知って殴り殺した裕次郎はそのまま二谷の銃を奪い(自分のピストルは殺し屋の現場に清水まり子による殺害の身代わりのため証拠に置いてきたので)、組の幹部たちが集まっているバーに乗りこむと無言で全員を射殺します。キャバレーのママの轟夕起子の手配で香港への密航まで裕次郎は指名手配状態で潜伏しますが、この轟夕起子の役割は物わかりの良い世話焼きの年長者で『俺は待ってるぜ』の小杉勇の初老医師に相当し、本来裕次郎の立場の人間にとっては日和見の欺瞞的な人物なのが作劇上の都合とはいえ瑕となっています。また本作が『望郷』の翻案に終わらず鮮やかにヒーロー型アウトロー主人公の石原裕次郎を描いている名作としても『ハイ・シェラ』『死の谷』にはおよばないと思えるのはヒロイン像と犯罪サスペンス・アクション映画の中のロマンスの導入であり、本作の北原三枝は冒頭事故死に見せかけて殺された男の妹で、兄が死んだために東京から兄嫁の手伝いにレストランと港の荷揚げのため大学をやめて神戸に帰ってきており、兄の遺児に通りすがりの裕次郎がハーモニカで「青い目の人形」を吹いてやり、そのあとその少年を通して知り合います。実は男は麻薬密輸取引のもつれで裕次郎の組の者に殺されており、刑事は裕次郎と親しくなっていく北原に「あんたの知らない世界の男や」と忠告し、ついに殺人犯となって手配された裕次郎を誘い出す餌として刑事は偽の新聞記事で北原がヤクザに襲われ重傷入院中の報を流して裕次郎を誘い出します。実はキネマ旬報のあらすじの「二郎の愛人マミー(中原早苗)が働く(キャバレー)」という部分は筆者の加筆で、裕次郎北原三枝に惚れてしまいつれなくされても、また抜き差しならない状況になっても裕次郎に惚れぬいていり中原早苗裕次郎に尽くし、香港密航に同行するため待ちます。偽の新聞記事を見た裕次郎は夜の病院に忍びこみ、ここで素晴らしい横移動の長いカットがあり撮影の姫田真佐久カメラマンがのちの日活ロマンポルノでも見せた長回しの冴えが堪能できますが、本作も波の光が北原三枝の顔に揺らぐショットが効果的で、夜の病院の庭の照明効果ともども岩木保夫の照明、木村威夫の美術が光り、裕次郎がようやく見つけた北原の病室では北原が甥の少年にハーモニカでやはり「青い目の人形」を吹いている、という音楽的モチーフの活用は脚本由来としても音楽の鏑木創の仕事の的確さを示します。病院の門で待つ刑事の大坂志郎中原早苗が「あの人は来なかった!」と訴え、大坂が病院の庭に踏みこんで裕次郎の後ろ姿に近づくと、晴ればれした顔でゆっくり振り向いた裕次郎に大坂が手錠をかけて映画は終わります。しみじみ余韻を残す結末ではあるけれど結局裕次郎の北原への純愛が罪を懺悔させる具合になっていて、追っ手に殺されるまで最後まで逃亡を諦めない『ハイ・シェラ』のボギー、『死の谷』のマクリーとは違う。また『ハイ・シェラ』ではアイダ・ルピノ、『死の谷』ではヴァージニア・メイヨがボギーやマクリーと対等かそれ以上に強い意志で共犯をまっとうするので、本作で言えば裕次郎北原三枝への未練を断ち切り中原早苗と決死の逃避行に向かうとしたら、その場合は北原と中原の配役が逆になるか、北原は裕次郎を売る手助けをせず中原に代わって裕次郎と密航する決意をすることになりますが、真に目覚めたヒロインとして『ハイ・シェラ』『死の谷』に並ぶものになるとしてもヒロインを立てて際立ってしまうと裕次郎の位置は下がってしまうので(『ハイ・シェラ』『死の谷』はともにヒロインの方が配役では上です)、『赤い波止場』が石原裕次郎主演作として一貫するにはヒロインは従属的な役割にとどまるしかなかったとも言えます。しかし圧倒的な緊張感、苛烈な死生観、真の対等な関係から生まれる命がけの愛など『望郷』や『赤い波止場』はアウトロー映画として『ハイ・シェラ』『死の谷』ほど徹底していない、ロマンスすら男性優位型の発想でしかない不満もあるので、本作では刑事と裕次郎の会話で「神戸じゅうの女をメロメロにする気やんか?」「セックス・アピールってやつはどうしようもないんでね」と呑気な台詞がありますが、良くも悪くもそのナルシシズムが魅力でもあり限界でもあるのが石原裕次郎アウトロー映画をヒーロー型の性格にとどめているとも言えそうです。